武田滅亡と蜀滅亡には共通点があり過ぎた!軍事優先国家の末路


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kawausoとおとぼけ

 

kawausoは日本の戦国時代と三国志を同時進行で書いているので中々大変ですが、時代も民族も違う二つの国の歴史には、びっくりする程に共通点が見いだせる事もあります。特にそれが顕著(けんちょ)なのが経済です。ダメになる国は必ず経済がダメになり、それを引き金に他の政策もどんどんダメになっていきます。例えば、戦国最強を(うた)われた武田家と三国の一角を占めた蜀漢(しょくかん)は滅亡への経緯(けいい)に非常に共通点があるのです。

 

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経済力に見合わない軍事国家

兵士 朝まで三国志

 

武田と蜀漢の共通点の①は、国力に見合わない軍事力を保持していた事です。例えば蜀は、戸籍人口90万人から100万人なのに兵士と官吏の総数が14万人と全体の14%という、かなりガチガチの軍事優先国家になっています。もちろん兵士も官吏も生産には従事せず、人民の税金で養われる存在なので、残りの86%の住民に課せられる税金は重くなります。蜀には蜀錦という特産物もありましたが、この資金は北伐の費用として計上され、住民には還元されなかったようです。

真田丸 武田信玄

 

一方武田氏の根拠地である甲斐は石高22万石ですが、土地は山がちで痩せていて、さらに笛吹川(ふえふきがわ)釜無川(かまなしがわ)といういわくつきの暴れ川が領内で度々氾濫(はんらん)を繰り返し、収穫を台無しにしていました。幸いにして甲斐には日本有数の埋蔵量を誇る金山がありましたが、長い間港を保有していなかった武田氏は、その豊富な金を広く日本全体に流通させる事が出来ませんでした。

鉄甲船

 

このような経緯から武田信玄は不安定な農作物の収入や物流がもたらす利益より重税により国を運営する方針を採用、家屋税や後家税、喧嘩税、果ては坊主が結婚した時に支払う妻帯税など、あの手この手で税を徴収して軍事力を支えるようになります。事実、甲斐は特に領民の逃亡が多い土地として知られていたのです。両国とも経済力に比較して軍事力が突出して多い軍事国家である事は共通していました。


周囲に強敵を抱えていた

司馬懿

 

しかし、蜀にしても武田氏にしても、経済力に見合わない軍事力を保有するのには理由がありました。蜀は北に8倍の国力を持つ魏が存在し魏に軍事力で飲みこまれないように、国力に見合わなくても、多数の兵力を維持しないといけませんでした。

上杉謙信

 

一方の武田氏も領地の四方に、今川、北条、上杉という戦国史上でも屈指の名将が存在し、特に上杉謙信とは信濃を巡り、何度も川中島で激突した関係でした。この状況下で石高に見合った兵力に削減するのは自殺行為であり、信玄は自分のやっている事が領民に高負担を強いている事は百も承知だったのです。周囲を強敵に囲まれていたというのも武田氏と蜀漢に共通していますね。

餓えた農民(水滸伝)

 

【無敵の騎馬隊を率いて天下を夢見た武田信玄の生涯】
武田信玄


軍拡以外に国力の成長が望めなかった

敵に塩を送る (武田信玄と上杉謙信)

 

武田氏は、領国の甲斐の土地が痩せてる上に、土地は山だらけで陸の孤島という状態でした。特に領地に海がない事から塩のような人間が生きていくのに欠かせない物資を外部に依存しており、経済封鎖により塩攻めに苦しめられる事もあったのです。

そのような経済的な封鎖を受けやすい弱小国が危機を脱する道は軍事力を拡張して、外に出ていくしかありません。その為に武田信玄は、貧しい国力を増強する為に、経済拠点として港を手に入れる為に、信濃、そして今川領だった駿河に進出していきます。

兵糧を運ぶ兵士

 

一方の蜀漢は、経済そのものは自国で(まか)えていましたが、辺境の地方政権であり、放置しておくと、次第に士気が低下して魏に飲み込まれる危険性がありました。もうひとつ、蜀は前漢景帝の末裔を名乗る劉備(りゅうび)という男を皇帝に立てた建国の経緯から、後漢を滅ぼして建国した魏を認めるわけにはいかず、魏を滅ぼして一度滅んだ漢を再興する事を国是にしていました。

韓信vs孔明

 

もちろん、スローガンばかりではなく、経済力でも農業生産力でも蜀を上回る魏を放置すれば、国力の差がどんどん開いてしまい、もう抵抗そのものが出来なくなる恐れもあり、万難(ばんなん)(はい)して自ら北伐と称する外征を五回も繰り返す事になります。

貧しさを抜け出す為に軍拡に走った武田氏、強大な魏を牽制する為に過重な軍事力を維持し、無理をして外征をしないといけなかった蜀漢、内容は違いますがどちらも軍拡に突き進まないといけない背景がありました。


そして過重な軍事力が両国を滅ぼした

安土城 織田信長が作らせた城

 

乱世を生き残る為に軍事国家の道を選択した武田氏と蜀漢、しかし、皮肉にも両国は軍事力を拡大した事が滅亡への道を招いてしまいます。武田氏は信玄の時代に、甲斐、信濃、駿河(するが)、西上野、飛騨(ひだ)国の一部を領有する大大名に成長しますが、その為に費やされた軍事費は、領地拡大の恩恵よりも大きなものでした。

武田信玄死去

 

信玄は晩年になればなるほど増税するようになり、信玄の死後も増税は続きます。これは、領土が増えたからと言って、武田氏が財政的に豊かになったのではない事を意味します。

一方の蜀漢も、諸葛孔明の五度の北伐の失敗により大きな経済的な損失を受けます。それでも孔明の北伐はギリギリ、蜀の財政規律を守るものでしたが、孔明の後継者になった姜維は、毎年のように北伐を繰り返し、特に、256年の段谷の戦いで魏に大敗して、1万人という捕虜と死者を出してしまい、ただでさえ弱い蜀の国力を衰退させてしまいました。

 

これを契機に蜀漢は、衰亡の道を歩み、西暦263年には魏の鄧艾(とうがい)の軍勢に滅ぼされてしまうのです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

もう一つ、武田氏と蜀漢の共通点があります。武田信玄と諸葛孔明は、どちらも質素倹約を実践した人物であるという事です。そりゃあ国内に重税を課しているわけなので、自分だけが贅沢をすれば、部下はついてこないという事情はあったでしょう。

事実として甲陽軍鑑(こうようぐんかん)は、武田信玄を諸葛孔明になぞらえている事から後世の人から見ても、信玄の悲壮感は諸葛亮のそれに重なる所があったのでしょうか。

 

参考文献:劉備と諸葛亮 カネ勘定の三国志

「桶狭間」は経済戦争だった: 戦国史の謎は「経済」で解ける

 

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北伐の真実に迫る

北伐

 

 

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