三国一のボンクラ皇帝として名高い劉禅、かりにボンクラでなくても世紀の凡君と呼ばれ、諸葛亮や蔣琬がいなければ、あっという間に蜀が滅ぼされていたと言われがちです。しかし、諸葛亮が政治を主導した時期ならともかく、諸葛亮没後の劉禅は自ら国政を執ろうとし実際に政治を主導してさえいました。嘘だと思うでしょ?史料を見てみましょう。
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諸葛亮没後、呉懿を引き上げ蔣琬と対峙させようとした劉禅
諸葛亮の死後、蜀の政治は漢中は蔣琬が成都は費禕が取り仕切る二頭体制になったと多くの場合は説明されます。実際に蔣琬伝を見ると、諸葛亮の没後、蔣琬は尚書令となり、にわかに行都護・仮節・領益州刺史を加えられて大将軍になり安陽亭侯に封じられた。という記述が出てきます。
しかし、元々劉禅は蔣琬に漢中の事を任せるのは反対であった節があります。その根拠は正史三国志の呉懿伝の中の西暦234年、丞相諸葛亮が没すると呉懿を督漢中・車騎将軍・仮節・領雍州刺史とし済陽侯に進封したという記述にあります。督漢中というのは、漢中の兵権を握る地位であり、さらに仮節も与え雍州刺史も加えているという事は、劉禅は元々、呉懿を漢中に駐屯させるつもりであった可能性を窺わせます。
呉懿は先帝劉備の正室、穆皇后の血縁者で帝室に連なる人物であり、劉禅の意を呈していると考えて不思議はありません。ところが呉懿は期待に応える前に237年に病死してしまいました。一方で、蔣琬が漢中に入るのは西暦238年、翌年には幕府を開いて大司馬の地位に就きます。つまり劉禅は元々は呉懿に漢中を任すつもりであったのを呉懿が死んだので仕方なく蔣琬に任せたのではないでしょうか?劉禅としては不本意ながらという、ベストではないがベターな人選とも取れます。
蔣琬への詔は北伐に消極的
劉禅が余り北伐に積極的でないのは漢中に駐屯した蔣琬に宛てた詔にも現れています。
賊の災難はまだ止まない。曹叡は奢り高ぶり凶暴であり、遼東三郡は暴虐に苦しみ、とうとう糾合して魏に離反した。曹叡は大いに軍役を興し、還ってこれと争っている。先の秦の滅亡は陳勝・呉広の難を最初とした。今、この変事があるのは天の時である。君は軍隊を統括し諸軍を総帥して漢中に屯住し、ミスる事なく呉の挙動を見て、東西のタイミングを図り、魏の隙に乗じなさい。
一見すると勇ましいですが、要約すれば動く時は呉と連携してね、単独行動はダメよと言っているだけです。甚だ日和見が過ぎる詔と言えるでしょう。劉禅は内心では、余程の事がない限り、北伐には不承知であったと考えられます。
劉禅、北伐を握りつぶし蔣琬を左遷する
ところが、劉禅が詔に置いて念を押した呉と連携してねという事態が起こります。西暦239年、曹叡が崩御、新しく曹芳が即位したタイミングを見計らい、241年、孫権が揚州・荊州に出兵したのです。芍陂の役です。蔣琬はこれに合わせる形で秦嶺山脈を越えるルートではなく、長江を下っていき、漢水と沔水から、上庸、魏興に攻めこむプランを提示し極秘に船舶を建造しました。しかし、これに対し朝廷から待ったが掛かります。
理由としては、長江を下る時はいいが、帰る時は遡上しないといけないので、もし敗北すると撤退が困難であるというものでした。これに対し蔣琬は、主戦論を論じ頑張ったようですが、成都から費禕が説得の為にやってきて、ついに断念のやむなきに至りました。さらに二年後の243年蔣琬は最前線の漢中から涪に移転させられます。そして、代わりに大将軍になったのは、朝廷の命で蔣琬を説得した費禕でした。
蔣琬の地位は大司馬のままでしたが、事実上左遷である事は、244年の興勢の役に蔣琬や姜維の出陣が無かった事で分かります。蔣琬は重病であった可能性もありますが、蔣琬と歩調を合わせた姜維も涪に留められているので、やはり左遷臭いのです。では、だれがこの左遷を主導したのか?この頃はまだ宦官黄皓も台頭する前です。だとすれば、劉禅が決断し費禕が実行したと考えるのが自然ではないでしょうか?
蔣琬没、劉禅が親政を宣言
西暦246年、蔣琬は持病が悪化して死にます。死ぬ前に上奏して姜維を涼州刺史とするように願っているので、己の後継として姜維を置いたのでしょう。その願いを劉禅は受理しますが、正史御主伝が引く魏略によると、こんな記述があります。
蔣琬が没し、劉禅はかくして自ら国事を摂った。
折しも同年には董允も没していて、劉禅の親政を阻む障害は消えていました。劉禅の行動に一々諫言するジジイと、諸葛亮の亡霊のような蔣琬が消え、劉禅は39歳になって、漸く自ら政治を執るチャンスが生まれたのです。
腹心の費禕と姜維を上手く使いながら蜀を維持
劉禅が親政を始めたからと言って、わがまま放題をしたわけではありません。劉禅の意向を反映した費禕を大将軍に任命して開府させつつ、蔣琬の遺言も入れて姜維を衛将軍、録尚書事としながら、費禕により姜維をコントロールさせたのです。費禕の支配下では、姜維は一万人を超える兵力を与えられず、なかなか大規模な侵攻は出来ませんが、それは裏返せば敗北しても被害が軽微という事です。
また、蜀には一定数の北伐論者がいるので、彼らの不満を姜維でガス抜きさせているというメリットもありました。
費禕&陳祗が没し治世に暗雲が立ち込める
うまく姜維を抑えていた費禕ですが、博愛主義者だった事が祟り、魏からの偽りの投降者である郭循に刺されて死亡します。しかし、費禕は自身の弟子として陳祗を推挙していました。陳祗は姜維よりも地位は低いものの、毎年のように外征している姜維と違い、成都にいるので周囲の信望が厚く、姜維の暴走を何とか抑えていました。
しかし、費禕の箍が外れた姜維は、以前より大軍を率いれるようになり、西暦256年、段谷の戦いで魏の鄧艾に大敗してしまいます。この大敗で蜀は大幅に兵力を減らし、滅亡へのカウントダウンが始まります。
さらに、258年には陳祗も没しました。残念な事に陳祗には有力な後継者はなく、この年から蜀は宦官黄皓の専横にさらされるようになります。劉禅がボンクラになったのはこの頃からで滅亡まで、後5年に迫っていました。
三国志ライターkawausoの独り言
どうして、劉禅は同時代の孫晧に比較してもボンクラに見えるのでしょう。その大きな理由は蜀が、史官を一時期以外は置かず、どんな政治をしていたかの史料が乏しい為です。つまり、本当は劉禅はもっと色々動いていた筈が、歴史書の書記官がいないので、その記録がほぼ伝わっていないのです。しかし、劉禅が信任していた人の動きを見てみると、劉禅が親政の意志を持ち北伐派と内政充実派のバランスを取り、少なくとも滅亡五年前までは、ちゃんと政治の舵取りをしていたように感じます。劉禅は凡君ではなかったのです。
参考文献:正史三国志 後主伝
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