匈奴の劉淵とは何者か?晋朝からの自立を宣言した漢

2019年12月26日


 

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三国志を統一した司馬炎

 

西晋(せいしん
)
(265年~316年)は初代皇帝司馬炎(しばえん)の死から間もなくして外戚(=皇帝の一族)である楊氏が実権を握ったので、政治は乱れます。

 

匈奴の劉淵

 

 

そこに目をつけて登場したのが、匈奴の劉淵(りゅうえん
)
という男でした。彼はいったい何者でしょうか?今回は劉淵について解説します。

※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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まさか、オヤジはサイヤ人

 

劉淵は(220年~265年)の嘉平年間に(249年~254年)に生まれたと言われています。父は劉豹(りゅうひょう
)
。劉豹は「左賢」とも呼ばれ、後漢(25年~220年)の女性詩人蔡文姫(さいぶんき)と結婚した人で有名です。しかし、これには矛盾しています。左賢王が活躍していたのは後漢末期。蔡文姫が南匈奴に拉致されて左賢王と結婚したのは興平年間(194年~195年)です。左賢王の生没年は分かっていませんが、蔡文姫と結婚時点で20歳と推定しても、劉淵が生まれた時で75歳以上!

 

 

西遊記 孫悟空

 

 

『ドラゴンボール』のサイヤ人のように、年齢を重ねるのが遅い民族でない限り、嘉平年間に(249年~254年)子供を作るなんて無理な話です。おそらく劉淵の部族は、名も無き弱小部族だったのでしょう。ただし、劉淵の正当性を付けるために、父親の名前に左賢王を使用したと考えられています。

 

八王の乱

司馬乂は恵帝・司馬衷に良く忠誠を誓う

 

太熙元年(290年)に司馬炎は亡くなり皇太子が即位しました。第2代皇帝恵帝(けいてい
)
です。この皇帝は、あまり賢くなく政治は外戚の楊駿(ようしゅん
)
に握られます。これに反発した恵帝の皇后である賈氏は司馬亮(しばりょう
)
(汝南王 司馬懿の三男)と司馬瑋(しばい)(楚王 司馬炎の次男)に協力を求めました。彼らは楊駿を殺害してくれますが、仕事を終えたらもう用済みです。2人とも賈氏により抹殺されて、今度は賈氏による専制が始まります。

 

読み書きのできない司馬倫

 

永康元年(300年)に司馬倫(しばりん
)
(趙王 司馬懿の五男)が、虐げられることに我慢出来なくなりクーデターを起こします。クーデターの結果、賈氏は排除、恵帝は幽閉されました。勝利に終わった司馬倫は自分が皇帝になることを宣言。

 

クーデター成功後に今度は司馬倫討伐に参加する司馬穎

 

だが、これに反発した他の王が司馬倫を抹殺。永寧元年(301年)に司馬冏(しばけい
)
(斉王 司馬炎の甥)・司馬顒(しばぎょう)(河間王 司馬懿の姪孫)・司馬乂(しばがい
)
(長沙王 司馬炎の三男)・司馬潁(しばえい
)
(成都王 司馬炎の七男)・司馬越(しばえつ
)
(東海王 司馬懿(しばい)の姪孫)が親族間での戦争を起こします。

 

混乱は光熙元年(306年)に司馬越が第3代皇帝懐帝を即位させるまで続きました。この一連の騒動を「八王の乱」と言います。

 

八王の乱

 

 

劉淵の即位と西晋への反乱

野望を抱く劉淵

 

話を劉淵に戻します。劉淵は幼少期から洛陽で生活していました。この時に多くの知識人と交流したそうです。八王の1人である成都王の司馬潁は彼の部族を使うために、洛陽になるべくとめておきました。ところが、八王の乱がひどくなるにつれて、匈奴も自立を図るものが増えてきます。

 

劉淵も従祖父の劉宣から独立をすすめられました。そこで劉淵は司馬潁を説得して外部の敵に備えることを口実に、司馬潁のもとを離れることに成功。戻った劉淵は独立を宣言します。西暦304年でした。元号は「元熙」と定めますが、国号はなんと「漢」だったのです!

 

その理由については以下の通りです。

 

「漢は天下を支配することが長く、その恩徳は人心に結びついている。だから劉備は益州だけで天下を張り合えたのである。我々匈奴は漢皇帝の甥であり兄弟ともなった。兄が滅んだら、弟が継ぐのは当然である。漢と称して劉禅を追尊し人望を懐くべきである」

 

なんてプラス思考な解釈。劉淵は漢(前202年~後220年)の時に匈奴が兄弟関係になったことを根拠に自分たちの国を「漢」と自称したのです。要するに継承順番は、前漢→後漢→蜀漢→漢(劉淵の国)・・・・・・こんな感じです。

 

漢王朝として独立した劉淵

 

建国後、劉淵は司馬騰(東海王 司馬越の弟)を破り、鮮卑・氐族の有力者を配下に収めていきました。漢の永鳳元年(308年)に劉淵は皇帝に即位します。このまま一気に西晋を攻め滅ぼすことも可能です。ところが、人生とは上手にいかないものでした。2年後の河端2年(310年)に劉淵はこの世を去りました。

 

「漢」を建国宣言して勝手に独立した劉淵

 

西晋討伐は次の世代に託されます。劉淵が建国した「漢」は第5代皇帝劉和の時に「趙」と改められました。趙という国は当時、2つ存在していたので今回紹介した国は後世、「前趙」と呼ばれることになります。

 

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

今から5年前の話ですが、『後三国演義』という本を古本屋で購入して読みました。本当の題名は『後三国石珠演義』と言います。どうやら清(1644年~1911年)の頃の小説らしいですが、詳しいことは分かっていません。

 

内容は三国時代終了直後から始まります。石珠と劉弘祖という人物が、悪政を行う西晋を倒すために立ち上がるという勧善懲悪小説です。負けたと思ったら次のページでは調子よく勝つというパターンが連続するので現在で例えるのなら、「ライトノベル」やネットの「異世界転生小説」に近いものでした。

 

昔の人も今の人と考えが変わらないのかもしれませんね(笑)

 

※参考

・三崎良章『五胡十六国 中国史上の民族大移動』(東方書店 2012年)

 

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はじめての漢王朝

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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