麒麟がくる第六話では足利義輝を擁立し、三好長慶や松永久秀の上司である細川晴元が登場します。今回は晴元の刺客が、長慶と久秀を亡き者にしようと動きますが、この将軍家の背後にいるラスボス細川晴元とは何者なのでしょうか?
この記事の目次
分裂する細川京兆家の一方に生まれる
細川晴元は永正十一年(1514年)、細川澄元の子として誕生します。
先代の管領、細川政元は将軍のクビを挿げ替えるような実力者でしたが、生涯妻帯せず、修験道に凝った気分屋で、実子がなく、九条家から家督相続を条件に養子として迎えていた聡明丸(澄之)を正式に嫡子と定め丹波守護職を与えました。
しかし、血縁がない九条家からの養子に一門は猛反発。結局政元は、細川一門の阿波守護家から六郎(澄元)も養子として迎えて家督相続を約束し聡明丸を廃嫡しますが、時すでに遅し、澄之・澄元両派の対立が先鋭化し、細川京兆家は分裂しました。
その中で、澄之は早めに没落しますが、政元の3番目の養子である高国が澄元派と激しく争うようになります。
永正十七年、父澄元が細川高国との争いで阿波国に退去し戦死したので晴元は家督相続。
高国は澄元に何度も煮え湯を飲ませ、足利義晴を将軍に擁立するなど事実上の天下人であり、晴元はかなりの劣勢にありました。
高国派の内紛を利用し堺公方府を開く
大永六年(1526年)高国が従弟の細川尹賢の讒言を信じ部下の香西元盛を討ちます。それにより、元盛の実兄波多野植通等に背かれ高国勢力は内部分裂します。このチャンスに13歳になっていた細川晴元は、重臣の三好元長に擁立され、同年10月に高国打倒の兵を挙げ、畿内まで進出し波多野軍と合流。細川高国の将軍擁立に対抗し、足利義維を擁立して朝敵の汚名を免れました。
大永七年に、晴元は桂川原の戦いで高国を破ります。高国は義晴を擁して近江国に落ちたので、和泉国堺を本拠にした晴元は義維を将軍とした疑似幕府堺公方府を置きました。
重臣三好元長と揉め窮地に陥るも和睦し高国を討つ
しかし、享禄二年(1529年)、重臣の三好元長が柳本賢治・三好氏傍流の三好政長と対立、晴元も細川高国と和睦を図り、元長は失望し阿波に下向します。
これをチャンスと見て、高国も備前守護代の浦上村宗を抱き込み再起。迎撃に向かった柳本賢治は高国の刺客に殺され、高国は摂津に侵攻、堺公方府は窮地に立ちます。享禄四年には、細川高国が摂津の大半を支配、京都も高国派の内藤彦七に奪回しました。
堺公方府は窮地に陥りますが、晴元は三好元長と和睦して、高国軍の進撃を阻ませ戦線を膠着化させつつ、赤松政祐を高国支援で送り込み、騙し討ちをする形で細川高国と浦上村宗軍を壊滅。逃亡した高国を摂津尼崎で捕縛して自害させ権力闘争に勝利します。
重臣三好元長を一揆を利用し排除
しかし、晴元は権力を握ると、将軍足利義晴と和睦、自分が造った堺公方府を放置して管領の地位に就きます。これに対し三好元長が猛反発。もはや邪魔者になった元長を排除すべく、晴元は反元長勢力を集結させます。
享禄五年 晴元は、配下の木沢長政を攻撃する元長を排除すべく、本願寺証如に一向一揆蜂起を依頼。一揆軍が首尾よく元長を殺害し、晴元は手を汚さず元長を始末。同時に不和になっていた足利義維も放逐して将軍家を一本化しました。
ようやく内乱を収めた晴元ですが、元長を殺した一向一揆が、その後も周囲を荒らしまわったので、対立宗派である法華宗と協力し法華一揆を誘発させ、近江の六角定頼とも協力し山科本願寺を焼き討ち、次に石山本願寺に移転した一向一揆と戦い反撃に遭い、一時は淡路に逃亡、その後摂津池田城で本願寺と和睦しました。
その後、晴元は木沢長政の仲介で元長の嫡男、三好長慶とも和睦し家臣に組み込みました。
当時の長慶は12歳でしたが、すでに軍事的な才覚を表していました。父を殺した晴元を憎んでいましたが、単独では対抗できないので、その臣下に入り臥薪嘗胆します。
細川氏綱に京都を追われる
天文五年、京都で勢力を伸ばした法華衆に対して、晴元は比叡山延暦寺、六角定頼と連合して鎮圧。次に細川高国の残党細川晴国を討ち取り畿内を安定させ、右京大夫に任官し管領として幕政を支配します。
しかし、天文八年、上洛した三好長慶が犬猿の仲の三好政長と河内十七カ所を巡り争います。晴元は古い重臣の三好政長に肩入れしますが、足利義晴と六角定頼の仲介で長慶と和睦し小競り合いで収束します。
ところが翌年には、増長した木沢長政が造反して、横暴な振る舞いが多い、三好政長排除を訴えますが、晴元がこれを拒絶し京都郊外の岩倉へ逃れ、翌年には反撃。長慶、政長と河内国の遊佐長教による活躍で木沢長政を討ち取ります。
まだまだ反乱は続きます、天文十二年には、細川高国の養子、細川氏綱が晴元打倒を掲げて和泉国で挙兵、天文十四年には山城国で、旧高国派の上野元治、元全、国慶3代と丹波国の内藤国貞が挙兵しました。
これに対し三好長慶、政長が反乱を鎮圧するものの、今度は天文15年の8月に一度は追い払った細川氏綱が遊佐長教の援助で再挙兵し、長慶の動きを封じて摂津国を奪い取ります。
これにより、畠山政国と遊佐長教らが手を結び、9月に上野国慶が再挙兵して京都に入ると孤立した晴元は丹波に逃亡します。
足利義晴と和睦し京都に戻る
この年の12月、足利義晴も滞在先の近江坂本で嫡男、菊童丸(足利義輝)を元服させた上で将軍職を譲ります。しかし本来ならば管領が行う烏帽子親役を義晴は、不在の晴元に代わり、六角定頼を管領代理にして行っています。
やがて、義晴は細川氏綱に与し、プライドを傷つけられた細川晴元は、三好長慶と協議して天文十六年に反撃、摂津の細川氏綱を打ち破り摂津を平定。長慶も舎利寺の戦いで細川氏綱、遊佐長教を破り義晴と和睦して、ようやく反乱を鎮圧し京都に戻りました。
三好政長への肩入れで長慶に叛かれる
しかし、天文十七年、晴国が過去に細川氏綱に寝返った罪を蒸し返して池田信正を切腹に追い込むとまた問題が勃発します。この切腹には重臣の三好政長の池田氏への内政介入が関係していました。
一度は許した信正を政長の讒言で殺してしまった晴元の措置は、三好長慶と他の摂津国衆の離反を招きます。三好長慶は、政長の討伐を晴元に願い出ますが、晴元はこれを拒否。長慶はこれで氏綱側へ転属し、三好長慶に背かれた晴元は摂津榎並城を包囲されます。
本来なら、逃げたいところですが、城には政長の子の三好正勝がいるので逃げる事も出来ず、援軍の六角定頼の援軍を待ちますが、間に合わず江口の戦いで敗北しました。この戦いで、三好政長、高畠長直等の多くの配下を失った晴元は将軍義輝と共に近江坂本まで落ちていきます。
三好長慶と細川氏綱に京都を奪われる
京都には三好長慶と細川氏綱が上洛、三好長慶が幕府と京都の実権を握ります。
天文十九年(1550年)に足利義晴が死去して後、晴元は義輝を擁立。香西元成や三好政勝など晴元党の残党を率いて、東山の中尾城と丹波国を拠点に京都奪回を試みますが失敗、中尾城を破棄します。
天文二十年(1551年)に丹波衆を率いた元成・政勝が相国寺の戦い、長慶軍に敗れました。
翌年1月に足利義輝は長慶と和睦して上洛。氏綱が正式に細川京兆家当主となり、嫡男の聡明丸が長慶の人質になります。表面上は両頭体制ながら軍権を握る三好長慶が近畿を実効支配します。
孤独に抵抗する落ち目の晴元
しかし、細川晴元は長慶との和睦を認めず出家。若狭守護の武田信豊を頼り若狭国へ下向、信豊は家臣の細川氏の領国である丹波へ派兵します。それから晴元は丹波国から度々南下して三好軍を脅かし、天文二十二年3月に義輝と三好長慶が決別し、7月に義輝から赦免されると再度義輝と共に長慶と交戦、しかし、8月に義輝方の霊山城が三好軍に落とされると義輝と共に近江国朽木へ逃亡しました。
根拠地丹波国では香西元成・三好政勝らが波多野晴通と手を結び長慶派の内藤国貞を討ち取ったものの国貞の養子で、松永久秀の弟、松永長頼に反撃されて丹波の殆どを平定され、弘治三年(1557年)に晴通が長頼と和睦して丹波は三好領国になります。
普門寺城で裏切りの人生を閉じる
播磨国でも香西元成が明石氏と結びますが、弘治元年(1555年)に明石氏が三好軍に攻撃され降伏、勢力拡大した長慶の前に手も足も出せなくなります。
永禄元年(1558年)に上洛を図り将軍山城で三好軍と北白川の戦いで激突するも、六角義賢の仲介で義輝と三好長慶が再び和睦を結んだ為に坂本に留まり上洛できませんでした。
永禄四年、隠居した晴元は次男の細川晴之を細川家の当主に見立て、六角・畠山軍とともに近江に反三好の兵を挙げさせるも、三好軍に敗退し晴之も戦死します。疲れ果てた晴元は、その後三好長慶と和睦するも、摂津の普門寺城に幽閉され、永禄六年3月1日に裏切りと戦の人生に幕を下ろします。享年50歳。
麒麟がくるライターkawausoの独り言
細川晴元は、最初から最後まで自前の軍勢を持たず、有力な守護や国人衆に軍事力で依存し、その為に派閥均衡が崩れると、平和はあっという間に崩壊しました。陰謀家で、多くの策略を成功させつつも、晴元に安定した統治が敷けなかったのは、その為で、その後を受けた畿内の権力者たちは、権威に頼らない自前の軍事力を重視し、急速に戦国大名化が進んでいきます。
力いっぱい内部分裂した細川本家は、多くの人材と政治ノウハウを失い、晴元死後、細川昭元の時代には、三好氏の傀儡に等しくなり、二度と勢力を取り戻す事はありませんでした。
関連記事:【麒麟がくる】織田家の人々が興じていた蹴鞠って何?ルールは?