魏(220年~265年)の初代皇帝である曹丕は弟の曹植と皇帝位をめぐって争ったり、曹植を支持した部下を粛清したことで有名です。
楊俊もその1人です。彼は若き日の司馬懿の才能を見抜いた人物でした。今回は司馬懿の才能を見抜くも、曹植を支持したことから命を落とした楊俊について正史『三国志』をもとに解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく解説しています
「司馬懿 歴史」
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司馬懿の才能を見抜く
楊俊は河内郡獲嘉県の人です。県は違いますが、司馬懿とは同郷関係に当たります。後漢(25年~220年)末期の学者である辺譲から学問を習いました。辺譲は兗州刺史時代の曹操を宦官の子孫と馬鹿にしたことから、曹操により殺害された人物です。ちなみに陳宮が曹操のもとを離れたのは、徐州大虐殺と兗州の地元名士である辺譲を殺害したのが原因と言われています。
話がそれたので戻ります。兵乱(曹操の徐州大虐殺か?)が起きると楊俊は貧しい人々と一緒に移動したり、親族や知り合いで奴隷に落とされた人がいたら、買い戻してあげて助けてあげます。
興平年間(194年~195年)に楊俊は、まだ16、7歳の司馬懿に出会います。おそらく避難の最中の出来事だったのでしょう。司馬懿を見た楊俊は、「並みの人間ではない」と判断します。
どこの部分を基準に判断したのか、史料は何も語っていません。贅沢を言うならば、正史『三国志』の著者である陳寿には、もう少し頑張って史料を探して欲しかったです。
王象との出会い
さて、幷州に非難した楊俊は王象という奴隷に出会いました。彼は若い時に両親を失って羊飼いに養われていたのです。楊俊と出会った時は17、8歳の少年でした。奴隷の身分なのに、学問に励んでいたのです。しかし、主人からはムチで容赦なく叩かれていました。
楊俊は王象の学問に対しての心構えに感心して、羊飼いにお金を払って王象を引き取ります。その後、王象に家・嫁も与えて楊俊は立ち去っていきます。要するに「成長するか、没落するかは君次第だ」という意味です。
楊俊と王象の悲劇
しばらくすると、楊俊は曹操の部下となりました。だが楊俊は曹操存命中から曹丕に好かれていませんでした。なぜなら、曹操は後継者を選ぶ際に部下から意見を聞いていたのですが、楊俊は曹植を推薦していたのです。それが漏洩してしまい、曹丕は楊俊を憎んでいました。
曹操の死後、曹丕は魏を建国します。魏の黄初3年(222年)に、曹丕は宛県に訪れました。正史『三国志』に注を付けた裴松之が持ってきた『魏略』という史料によると、「郡県に迷惑をかけてはならぬ」と詔勅が下ります。
ところが、宛県の役人は詔勅をしっかりと読まなかったらしく城の門を封鎖。曹丕は城に入れてもらえませんでした。
「俺は盗賊か!」と上手なツッコミを入れた曹丕は、太守の楊俊を逮捕します。ここで自分を後継者に指名しなかった恨みを晴らすことにします。司馬懿・王象・荀瑋の3人は楊俊を弁護します。司馬懿と王象は楊俊から評価してもらった恩があるので、弁護は当然でしょう。
荀瑋は分かりません。名字から荀彧の一族のように感じますけど全く関係ないようです。司馬懿や楊俊と同じ河内の人のようであることから、同郷関係による弁護でしょう。もちろん、曹丕はこれらの弁護を却下。それどころか王象に対しては、「お前と楊俊の関係は分かっているんだ。お前の言う通りにすれば、この『曹丕』という存在が無くなるじゃないか。お前は私と楊俊のどっちをとるんだ?」、と意地の悪い質問を浴びせました。
一方、楊俊は自分を弁護することはしません。「私は罪をわきまえています」と言うと、自殺して果てました。享年不明。楊俊の死から間もなく、王象もこの世を去りました。かつて自分を助けてくれた恩人を救えなかったショックから病気になったようです。
三国志ライター 晃の独り言
楊俊と王象の話は正史『三国志』のみであり、小説『三国志演義』には一切登場しません。『三国志演義』に登場したら、感動話として盛り上がったと筆者は想像しています。間違いなく、ドラマやマンガでも涙腺崩壊の個所と考えてもおかしくないでしょう。今後、作ってくれることを期待しています。
※参考文献
・佐藤達郎「曹魏文・明帝期の政界と名族層の動向:陳羣・司馬懿を中心に」(『東洋史研究』52-1 1993年)
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