鉄砲が組織的かつ大量に使用された戦いとして教科書的に有名な長篠の戦い。
しかし、実はそれよりも5年前に長篠の戦いを上回る規模の大量の鉄砲が使われた戦いがあったのです。それが元亀元年の野田城・福島城の戦いで、織田方と三好三人衆が大量の鉄砲を持ち込み、一日中撃ち合いを続ける戦いになりました。
三好三人衆が信長に攻撃を仕掛ける
永禄11年(1568年)織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、6万の軍勢で内部抗争を繰り返していた三好三人衆を追放します。しかし翌年1月、信長が美濃に戻った隙を突いて三人衆は本国阿波から畿内に上陸し、僅かな共に守られ本圀寺にいた足利義昭を襲撃しました。
しかし、明智光秀以下の供が奮戦したので奇襲に失敗、摂津から義昭を救出にきた伊丹親興、池田勝正、荒木村重を中心とする3000名の援軍に追撃され桂川で戦うものの敗退します。翌、元亀元年、織田勢が畿内から撤収した隙を突き、諦めが悪い三好三人衆は再蜂起、摂津池田城主の同族の池田知正と重臣の荒木村重を調略して池田勝正を追放する事に成功。
かくして、摂津に拠点を得て三人衆は挙兵し摂津中嶋に進出、野田城・福島城を増築し櫓を立てて、濠を巡らし壁を建てました。この頃、摂津野田城周辺は、八十島と呼ばれる川に挟まれた小島で守りやすい土地だったのです。ここが無数の鉄砲を撃ちまくる舞台になります。
三人衆の攻勢に信長出陣
三好三人衆には、細川晴元の子の細川昭元や紀伊の鈴木孫一のような雑賀鉄砲衆が呼応して加わり13000人に膨れ上がります。これに反応したのは、三好三人衆と敵対していた松永久秀・久通父子でした。
織田信長の上洛に協力して三人衆を追い払った久秀にとり、三好三人衆は絶対に追い払わないといけない宿敵です。二人は大和信貴山城で戦闘準備を整え、7月27日に信貴山城を出て河内に入国し三人衆の河内侵攻に備えます。
同様に永禄の政変で三好三人衆に兄の義輝を殺された足利義昭は危機意識を持ち、8月2日畠山昭高に御内書を送り、信長と協力して紀伊と和泉国の兵を集結させるように命じます。8月17日、三好三人衆は野田福島城を出て三好義継の城、古橋城に攻めかかります。古橋には三好義継150人、畠山昭高150人で300名がいたもののほぼ全滅、さらに榎並城も攻略しました。
この報告を受けて驚いた織田信長は、三人衆を討ち取るべく馬廻衆三千騎を引き連れて8月20日に岐阜城を出陣。8月23日に京都本能寺に着く頃には軍勢は4万騎に膨れ上がります。京都を出立した信長は、8月26日には野田城・福島城から南東5キロの天王寺に陣を敷いて本陣としました。
信長公記によると大坂、堺、尼崎、西宮、兵庫から外国や国内の珍品を携えて信長に挨拶しようとやってくる人や戦見物の人が群れ集まったそうです。それまでに、三人衆にも三好康長、安宅信康、十河存保、斎藤龍興のような援軍が到着しています。
日本史上最初の鉄砲銃撃戦が始まる
織田軍は本陣を天王寺に置き、天満ヶ森、川口、渡辺、神崎、上難波、下難波、浜の手に軍を展開。主力を天満ヶ森におき摂津の地理に詳しい、三好義継、松永久秀、和田惟政がスタンバイしました。当初、織田軍は野田城・福島城がデルタ地帯にある堅城のために寝返り戦術を駆使します。この作戦で、三好方の細川昭元、三好政勝、香西長信が織田軍に寝返りました。
9月3日、将軍、足利義昭が奉行衆2000を引き連れ細川藤賢のいる中嶋城に入り督戦します。物量で勝る織田軍は、野田城と福島城の対岸に楼岸の砦と川口砦という付け城を築き、それぞれ部将を入れます。9月8日、準備が整った織田軍は、三好義継、松永久秀が野田城・福島城の西の海岸の浦江城を攻撃、この時、織田方は火縄銃や鉄砲砲とよばれる大口径の攻城砲を撃ち込んだようです。これにより浦江城は短期間で陥落します。
織田方は浦江城に入り川を埋めて対岸に土手を築いて櫓を挙げ、9月11日より野田・福島城の直接的な攻撃を開始。ここから戦闘は本格化、信長公記によると9月12日には、雑賀・根来の鉄砲兵3000を含む2万人の連合軍が、遠里小野、住吉、天王寺に陣取り日本史上最初の大規模な銃撃戦が始まりました。
丹羽長秀の与力だった信長公記の著者太田牛一は、この時の戦いの様子を、「御敵身方の鉄砲、誠に日夜天地も響くはがりに候」と書いています。織田と三好三人衆の間で昼夜を問わず、鉄砲が撃ちまくられたのです。
雑賀や根来の鉄砲の数
雑賀や根来には、浄土真宗、浄土宗の門徒が多かったので、石山本願寺とは親密な関係を築いていました。足掛け11年続いた石山合戦で本願寺11世宗主顕如や坊官が紀州の門徒に対して多数の鉄砲を求め援軍を求める書状は17通もあり、鉄砲千挺、鉄砲五百挺という大量の鉄砲と、鉄砲足軽を求めています。
また、宣教師ジョアン・フランシスコは大坂本願寺には、八千挺の鉄砲があると天正六年の書簡で報告しています。それから「昔阿波物語」によると紀州の鉄砲は薩摩の国より来て、湊衆だけで三千挺の鉄砲を保有すると書いているようです。
野田城・福島城の戦いでは、紀州門徒が鈴木孫一の雑賀衆と信長サイドの畠山昭高に招集された根来・雑賀に分かれて従軍しましたので、太田牛一の鉄砲三千挺も盛った話ではないと思います。単純に鉄砲の数で言えば、長篠合戦より多くの鉄砲が野田城・福島城の戦いでは動員された事でしょう。
戦国時代ライターkawausoの独り言
野田城・福島城の戦いと長篠の戦いの違いは、鉄砲が組織的に運用されたかどうかだと思います。長篠合戦では織田・徳川連合軍は、馬防柵を立て鉄砲隊を組織して運用し武田勝頼を破っていますが、野田城・福島城の戦いでは、ひたすらに撃ちまくるだけで組織化されている様子はありません。
野田城・福島城の戦いは信長の勝利に終わるかと思いましたが、途中で石山本願寺が三人衆について参戦。さらに比叡山、浅井、朝倉の戦国大名も信長に叛いて信長は不利になり、織田軍は三好三人衆と和睦して一時休戦しています。
参考文献:現代語訳 信長公記 新人物文庫
参考文献:戦国時代を読み解く新視点 PHP新書
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