諸葛孔明のライバルであり、曹魏王朝を乗っ取り晋王朝建国の礎になった男。司馬懿。
彼の立身出世の切っ掛けは、司空時代の曹操に脅迫まがいの方法で仕官を強制させられたからです。では、もし、司馬懿が曹操に仕えなかったら歴史はどんな展開をしたのでしょうか?大予想をしてみましょう。
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仮病のつもりが本当に中風になる司馬懿
西暦207年、曹操は丞相になり、司馬懿に二度目のスカウトを掛けます。前回は中風を理由に仕官を拒んだ司馬懿ですが、曹操は拒否したら逮捕してでも連行しろと命じます。いよいよ年貢の納め時と思われましたが、ここで司馬懿に奇跡が起きます。
元々、人より首の骨が2個多く、真後ろを振りむける司馬懿でしたが、ストレートネックで慢性的な血行不良でした。その影響で首の骨が圧迫され、不意に足が麻痺して動かなくなったのです。
「司馬仲達は中風で、仕官しても任に堪えませぬ」
部下に報告され曹操は、渋々司馬懿に治療してから仕官するように命じます。ところが、間もなく曹操は赤壁の戦いで敗戦、ドタバタの中で曹操は司馬懿を忘れ、司馬懿は仕官を免れる事になりました。
麻痺した足も仕官がなくなると嘘のように善くなりました。どんだけイヤなんだよ。
※ifですよ!
司馬懿の才能は魏に必要?
かくして曹操と無関係になった司馬懿ですが、そもそも魏にとって司馬懿の能力は必要不可欠でしょうか?例えば、蜀の建国と官僚機構の整備や北伐には諸葛孔明は必要不可欠です。孔明と、その人脈なくしては、劉備が傭兵隊長から抜け出すのは無理だったでしょう。
では、逆に司馬懿がいないと魏が立ちいかない事があったでしょうか?
まず、赤壁の戦いですが、この頃、司馬懿は文官で曹丕のような曹操の公子に仕えていただけで、戦争にはタッチしていません。
次が、西暦215年漢中の張魯を攻める曹操に従い陽平関で戦った時ですが、ここで司馬懿は、漢中を落としたのを契機に蜀の劉備を攻めるべきと進言し、隴を得て蜀を望む事はしないと曹操に却下されました。ここでも司馬懿は必要不可欠ではありません。
樊城の戦いは司馬懿なしには勝てない?
西暦219年、荊州南郡の関羽が樊城に向かい進軍します。
これに呼応するように宛でも許でも反乱やクーデター未遂が続発し、関羽を討伐させる為に出陣させた于禁も長雨で溢れた漢水で軍が水没し関羽に降伏。関羽は、襄陽と樊城を同時に包囲しました。
曹操は関羽の勢いに怯え、許から遷都しようと考えますが、ここで司馬懿は遷都に反対し、関羽と実は不仲の孫権を抱き込み、関羽軍を背後から襲わせるべしと進言して、危機を脱する事が出来ました。
これは司馬懿なくしては出来なさそうですが、これと同じ進言は蒋済もしています。
司馬懿は聡明すぎて曹操に疎まれていて、逆に蒋済は信頼されていたので司馬懿がいなくても、曹操は許から遷都せずに孫権と結ぶ事を選んだ可能性が高いです。従って司馬懿なしには関羽を倒せないとは言えません。
北伐は司馬懿なしには勝てないのでは?
北伐は司馬懿と諸葛亮の全面対決のように思われがちですが、それは対蜀戦線を防備していた曹真が230年に死んだ後の事です。司馬懿は張郃と郭淮を従え、第四次と第五次北伐で諸葛孔明と戦いますが、取った戦術は持久戦でした。
無論、そうして無理をしなければ勝てると踏んだからですが、第四次北伐では張郃に無理な追撃をさせて殺してしまうなど、チョンボもあります。司馬懿は出世の邪魔になるので、わざと張郃を殺したという話もあり、だとすれば、北伐の総司令は張郃でも勤まる事になり、司馬懿でないといけない事にはなりません。
ただ、第一次北伐時に、諸葛亮が寝返らせて長安を突かせようとした孟達の謀反を察知し詔勅を待たずに独断で強行軍し上庸で孟達を破って斬ったのは大手柄です。
ここで孟達が上庸から長安に向かうと曹真は背後に敵を抱える事になり、兵力の分散を余儀なくされたでしょう。しかし、孟達が討たれたのは諸葛亮が進軍する前の正月で、その年の春に北伐が始まるので、謀反が上手く行っても、蜀軍と連動出来ない間に自滅した可能性もあります。
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