晩年の孫権は、後継者問題でどっちつかずになったり、佞臣を登用して群臣に愛想を尽かされるなどモーロクした話が多くなります。しかし、全てが全て孫権がおかしくなった訳ではなく、一方では疑われた蜀を庇い、無用な争いを回避した逸話もあるのです。今回は、さすが呉の大黒柱と拍手を送りたい孫権の決断を紹介しましょう。
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蜀の政変が呉の歩隲と朱然に疑念を持たせる
西暦244年、歩隲や朱然という呉の重臣が各々で孫権に蜀が呉を裏切り魏に付こうとしていると上奏しました。それによると、蜀から戻った者が全員、蜀が盟約に叛いて魏に通じようとして多くの軍船を建造し、城郭を修理している様子が見られると報告。
また大将軍の蔣琬は漢中を守りながら司馬懿が南下している間に兵を出して虚をつけばいいのにそれをせず、むしろ漢中を他人にゆだねて成都近郊まで戻ってしまった。これは魏と約束がある事は明白で、呉は蜀にも備えねばならないと言うのです。中々深刻な事態に孫権は、どのように対応したのでしょうか?
ガラにもなく冷静な孫権の反論
蜀が裏切り魏につくかも知れない!このショッキングな上奏に孫権は、怒り狂って先制攻撃を命じるかと思いきや、、意外にも冷静でした。
卿らの言い分はにわかに信じ難い、そも朕は蜀を軽んじた事はないし、盟約を裏切るような疚しい行動もしていない。なのにどうして蜀が裏切るだろうか?
また、諸君は司馬懿の動きに蜀が連動しているというが、司馬懿は舒に来たと思えば数日で退いた。蜀は万里の先にあるのに、どうして司馬懿に連動して出兵できると言うのか?
昔、魏が漢川に入ろうとした時、こちらは始めは厳戒し、挙動する前に魏が帰還したので救援を取りやめた。蜀はこの時の事を呉と魏で仕組んだ茶番だと疑っただろうか?
卿らは、蜀が城壁を修理したり船を建造しようとするのが怪しいと言うが、卑しくも国家たるものが自国を守る備えをしないでどうする?わが国でも城壁は修理し、軍船も建造するが、これは蜀を攻めようと思っての事だったのか?
とはいえ卿らは他人の言は信じられまいから、朕は我が家を破ってもこの言葉を請け負うぞ。
孫権の言葉は的中する!
孫権の見立て通り、蜀が魏の司馬懿と連動して攻めてくる事はありませんでした。実はこの頃、蜀では蔣琬が呉と連動して北伐を再開しようと画策していて漢水を遡り水路から魏を討とうと考えていたのです。
ところが、この北伐再開に劉禅以下の群臣が猛反対した為に計画は立ち往生し、呉に計画を知らせない内に蔣琬は漢中から内陸の涪に左遷させられました。しかし、一連の事件は一切呉に知らされて無かったようで、不透明に指揮官の蔣琬が漢中を去ってしまった事で歩隲や朱然は、蜀の動向に胡散臭いものを感じたのでしょう。ところが孫権には猜疑心より現実を見極める冷静な目が残っていたのです。
諸葛瑾亡き後も冷静さを保つ孫権
孫権の判断は何でもないように見えても実は凄い事でした。この頃、すでに諸葛亮は亡く、兄の諸葛瑾も西暦241年には死去していました。以来は蜀と呉の間に太いパイプがあったわけでもなく、疑心暗鬼が生じやすい状況にありました。
さらには、この頃、呉は樊城を攻めて一時は包囲したものの皇太子の孫登の死によって、軍を引き返し、樊城も司馬懿に解放させられたり、記録的な大雪が降って鳥獣の大半が死ぬという自然災害にも祟られている時期でした。
それにも関わらず、長年の経験と合理的な考え方で、群臣の疑心暗鬼を払拭した孫権は、大半モウロクしていても、呉の大黒柱と呼ばれるに相応しい能力を一部は保持していたと言えます。
人口流出に悩むも見せしめを禁じた孫権
もう一つ、孫権の治世の晩期には、呉から住民やら武将がどんどん魏に流出する時期でした。そこで呉では見せしめの為に、逃げ出した督や将軍の妻子を殺害していましたが、孫権はそんな事をすれば妻に夫から去らせ、子に父を棄てさせる事になり、礼教に悪影響なので、今後は中止するように命じたと三国志孫権伝を補う江表伝にあります。
本来なら、孫権としては人材の流出を考えれば、逃げれば妻子を殺すぞという脅しに使える見せしめ刑ですが、人情を損ねてまではそれは出来ないという事でしょう。この辺り、民衆には慈愛のある面を見せた孫権らしい配慮です。
三国志ライターkawausoの独り言
晩年の孫権と言えば、酒乱、頑固、猜疑心の塊、ワガママと老害が全て勢ぞろいしている印象ですが、若年の頃は紛れもない名君だった事もあり、晩年にも名君の片鱗が残っている感じがあります。
もっとも、歩隲や朱然も本気で蜀が攻めてくると思っていたわけではなく、蜀をダシにして、負けっぱなしの戦況を挽回すべく防衛予算をせしめる目的だったとも言われていますが、、
参考文献:正史三国志
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