あの西涼の馬超をボコボコにした閻行って誰?

2020年4月18日


 

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三国志を楽しく語る晃様

 

私は信じられない情報を手に入れてしまった・・・・・・

 

馬超をフルボッコする閻行

 

あの馬超(ばちょう)がボコボコにされたという話である。にわかに信じ難い話であるが、どうやら本当の話のようです。今回は馬超を痛めつけて討ち取る寸前までいった閻行(えんこう)という人物について、正史(せいし)三国志』をもとに紹介します。

 

※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。

 

自称・皇帝
当記事は、
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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馬超を倒す!

閻行

 

閻行(えんこう)韓遂(かんすい)配下の武将であり、若い時から武術の達人でした。残念なことに閻行については正史『三国志』に列伝は残っていません。正史『三国志』に注を付けた裴松之(はいしょうし
)
が持って来た『魏略(ぎりゃく
)
』という史料にわずかな記録が残っているだけです。

 

魏志(魏書)_書類

 

『魏略』は後漢(ごかん)(25年~220年)末期から(220年~265年)の初期までを生きた魚豢(ぎょかん)が執筆した書物です。内容が様々であり何でも掲載しようとするというマイナス面の評価もあれば、筆力があるというプラス面の評価もあります。最近の研究では史料的価値の高さに目を付けられています。

李信(キングダム風)

 

ちょっと話がそれたので戻ります。閻行は下っ端将校からスタートしました。『キングダム』で例えるなら100人将です。建安元年(196年)に韓遂(かんすい)馬騰(ばとう)涼州(りょうしゅう
)
の覇権をめぐって争いを始めました。2人はそれまで仲良くしており義兄弟の契りも交わしていたのですが、やはり領土問題となると話は別です。

 

韓遂

 

とうとう血みどろの抗争になり、韓遂は馬騰の妻子を殺害しました。怒った馬騰は勇猛果敢で腕のたつ馬超(ばちょう)を出陣させました。

 

蜀では結果が出せない馬超

 

この時、迎え撃ったのが閻行でした。閻行は矛で馬超を突き刺し、さらに折れた矛で馬超の首に一撃くらわせました。重傷を負った馬超はそのまま戦線離脱。あやうく命を落とすところでした。

 

三国志演義_書類

 

もしここで討ち死にしていたら、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』の五虎大将軍(ごこだいしょうぐん)の馬超も「三国無双(さんごくむそう)」シリーズも出来なかったでしょう・・・・・・

 

曹操に帰順しようとするが失敗する閻行

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

やがて時は流れて、建安14年(209年)になりました。閻行が馬超との戦いの後にどのような昇進を遂げたのか、『魏略』は何も語っていません。

 

馬上で曹操と会談する韓遂と閻行

 

だが、生粋の武人なので順調に昇進したと思われます。韓遂の命令で曹操のもとを訪れた閻行は、曹操から気に入られました。

 

曹操

 

帰った閻行は韓遂に対して曹操への帰順をすすめました。長年の戦争で民は疲れていると言いましたが、本当は閻行が曹操に降伏したいだけでした。残念ながら韓遂は「数年間だけ様子を見よう」と曖昧な返事をしたので、この策は失敗に終わります。

 

出世した韓遂

 

しばらくすると韓遂は曹操への反乱を企みます。韓遂をそそのかしたのは、かつて閻行がボコボコにした馬超でした。

 

この当時、韓遂の子は曹操の人質になっていましたが、馬超は「そんな子は捨てて、私を息子にしてください。私も韓遂殿を父とします!」と下手なセールス・トークを吹っかけてくるのです。どうしてなのか不明ですが、韓遂はこれに賛成します。

閻行の説得に耳を貸さない韓遂

 

閻行は韓遂に馬超と手を組むことをやめるように説得しますが、「もう決まったから」と韓遂は全く耳を貸してくれませんでした。まるでワンマン経営者・・・・・・30年近くに渡り西涼(せいりょう
)
の反乱軍を指揮したリーダーとは思えません。もう潮時なのかもしれません。

 

曹操への降伏

曹操を絶対殺すマンとしてなった馬超

 

馬超と韓遂の反乱は失敗に終わります。反乱終了後、曹操は都にいる馬超の父の馬騰、韓遂の子と孫を殺害。しかし、閻行の父には手を出しませんでした。放っておけば閻行が降伏すると思ったのです。

 

曹操に説得される閻行

 

一方、韓遂は閻行に降伏されてはまずいので自分の末娘を娶らせて、無理に近くに置きました。曹操には恩がある。だが、韓遂との主従関係も勝手に解消出来ない。閻行は板挟みになってしまいました。

 

間もなく、反撃が訪れました・・・・・・

 

曹操

 

建安19年(214年)に閻行は韓遂から西平郡(せいへいぐん)の統治を任されました。これを機会に閻行は謀反(むほん)を起こして韓遂を攻撃!韓遂は逃げたので討ち取ることには失敗しますが、閻行は自由の身となったのです。閻行は宿願(しゅくがん
)
だった曹操への帰順(きじゅん
)
を果たして、家族と再会を果たしたのでした。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が閻行についての記述でした。閻行は曹操帰順後に、史料から姿を消してしまいます。おそらく曹丕(そうひ)の時代まで生きていなかったのでしょう。太平の世を謳歌(おうか)せずに乱世の武人として生き抜いた・・・・・・

 

まさに武人の中の武人です。惜しいのは、馬超を倒すほどのレベルであるのに『三国志演義』に全く登場しないことです。出てくれたらもっと面白かったことでしょう。「無双シリーズ」でキャラクター化したら、凄く面白いでしょうね(笑)

 

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馬超特集

 

 

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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