好敵手。ライバルとも読みます。ライバルとは互いに切磋琢磨するものですが、時には自分が勝つために非常な手段を使い蹴落とすこともあります。
公孫瓚もその1人です。彼は自分のライバルである劉虞を倒すために人質をとり籠城したのです。今回は公孫瓚と劉虞の争いについて解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく解説しています
「公孫瓚 城」
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この記事の目次
漢王朝の末裔 劉虞
劉虞は後漢(25年~220年)の初代皇帝光武帝の子である劉彊の末裔です。劉備や劉表が「自称」漢王朝の末裔であるのに対して、劉虞は正統性のある人物でした。余談ですが、益州の長官である劉焉・劉璋父子も正統性のある漢王朝の末裔です。
中平4年(187年)に涼州のチベット族が、韓遂・馬騰、辺章に率いられて反乱を起こします。早急の対応を迫られた朝廷はすぐに烏丸族の騎兵隊を募集しますが、これで大失敗しました。
反乱鎮圧のために派遣された公孫瓚と劉虞
実は朝廷は烏丸族に対して給料を払っていませんでした。怒った烏丸族は代表の丘力居と役人の張純・張挙が反乱を起こしました。後世の人は「張純の乱」と呼んでいます。
この反乱平定のために朝廷から派遣されたのが公孫瓚と劉虞でした。公孫瓚は得意の「白馬義従」作戦で烏丸族をボコボコにしました。しかもこれが徹底的・・・・・・おかげで烏丸族は公孫瓚と聞いただけでビビッてしまいます。
劉虞の融和政策
一方、劉虞は戦を続けるのも面倒なので総大将の張純の首に懸賞金をかけました。間もなく張純は部下の手により殺害されて反乱軍は崩壊します。
それどころか烏丸族は劉虞の説得に応じて降伏します。劉虞はあくまで平和路線でいくことを強調したので、烏丸族に誠意が伝わったのでした。
反乱は終了したのですが、劉虞は幽州の統治をしなければいけません。だが、幽州は厄介な土地です。辺境であるため税収の見込みも少なく、また借金も膨大です。そこで劉虞は周辺異民族と貿易をすることを提案、さらに独自に塩と鉄を生産して商売を行いました。劉虞の着任後、幽州は税収も増えて人の往来も盛んになり幽州は経済発展を遂げました。
公孫瓚の嫉妬と融和政策の弱点
そんな時に、この光景を面白くないと思う人がいました。公孫瓚でした。彼は先の反乱討伐で手柄を劉虞に持っていかれたので劉虞に対して恨みを抱いていたのです。
公孫瓚は幽州の名門の出身でしたが、母親の身分が低かったので外に出されていました。公孫瓚は割と可哀そうな過去があったのです。反乱鎮圧で異民族討伐に躍起になっていたのは、手柄を立てて家に認めてもらいたかったからと推測されます。ところが予想外なことに劉虞に手柄を奪われてしまったのでした。しかも民は劉虞に懐いています。
おまけに劉虞は徐州出身。地元出身でもないのに手柄・人望全てを奪われたので公孫瓚の嫉妬は莫大だったでしょう。ただし、公孫瓚も劉虞の政策の弱点には気付いていました。
劉虞のように新しい事業を始めると他所から多くの商人の出入りが激しくなります。当然、それは以前から利益を独占していた商人の利益を侵害することになるのです。
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