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この記事の目次
劉虞擁立計画
初平元年(190年)に朝廷で悪事を働く董卓を打倒すべく袁紹や曹操は討伐軍を結成して洛陽に攻め込みます。ところが董卓は献帝を伴って長安まで逃げました。
初平2年(191年)に袁紹と韓馥は協議して董卓に対抗するために、新しい皇帝として劉虞を擁立することを計画。だが、これには袁術と曹操が反対。また劉虞本人も拒否します。それでも袁紹は「百官の任用と爵位の授与をお願いします」としつこくお願いしてきます。
これを承諾すると皇帝と同じです。劉虞は「しつこい!」と断固拒否。結局、劉虞擁立計画は頓挫しました。
公孫瓚と袁紹の争い
劉虞擁立に失敗した袁紹はその後、韓馥から冀州を脅迫して脅し取り冀州の長官となります。一方、袁術と孫堅も南陽で挙兵して荊州の長官である劉表と争い始めました。
この時期の天下は袁紹と袁術が争う時代であり、諸侯も2人のうちのどちらかについていました。袁紹には曹操・劉表・劉虞などが付き、袁術には孫堅・公孫瓚・陶謙などが付いていました。初平3年(192年)に黄巾賊の残党を撃退した公孫瓚はそのまま冀州に侵攻。後世、「界橋の戦い」と呼ばれています。
公孫瓚は得意の白馬義従を駆使しますが、袁紹軍は石弓(ボーガンのようなもの)で応戦して馬のスピードを封殺!ここに公孫瓚は敗北・・・・・・この時点で彼は天下統一の争いから脱落していたのです。
公孫瓚の人質作戦
敗北した公孫瓚を追い詰めるべく、初平4年(193年)に劉虞は出陣。以前から公孫瓚の軍は民に対する乱暴狼藉が多く、また劉虞が異民族統治のために貯めた軍資金や兵糧を公孫瓚は勝手に使い込んでいたのです。
劉虞は長年我慢しましたが、限界に達したのでした。だが、部下の中に公孫瓚の親族がおり、劉虞の出陣を公孫瓚に密告。劉虞は戦慣れしておらず準備に戸惑っている間に、公孫瓚は民を楯に籠城します。公孫瓚の籠城癖はこの時からあったようです。
びっくりしたのは劉虞。「斬るのは公孫瓚だけだ、民を傷つけてはいけない!」と戦とは思えない指示を出します。そうしている間に出撃してきた公孫瓚軍が火攻めの計にかかり、劉虞軍は敗北。劉虞は捕縛されました。
劉虞の最期と剥がされた聖人君子の仮面
捕縛された劉虞は公孫瓚の前に突き出されてます。勝てば官軍、負ければ賊軍です。公孫瓚は意地悪な質問を劉虞に浴びせました。
「皇帝に選ばれるくらいだから、あんたは特別な人物のはず。雨ぐらい降らせてもらおうかな」
当然、そんな特殊能力は劉虞にはありません。結局、劉虞は民を惑わしたという罪で斬首されました。死後に公孫瓚は劉虞の屋敷を家宅捜索して、驚愕の事実が発覚。
劉虞は日ごろから、質素な暮らしをしており聖人君子のように言われていましたが、屋敷の中には金銀財宝、妻や愛妾は豪勢な着物で着飾っていたのでした。要するに劉虞の聖人君子は政治的パフォーマンスだったのです。劉虞は民の模範というよりも、政治家の模範といったところでしょう。
三国志ライター 晃の独り言
劉虞の死後、公孫瓚が幽州の統治を行いますが公孫瓚は実力のある地元の商人や小役人などを重く用いて、世襲制の役人に対しては冷たく扱います。そこを反発した人々の恨みを買い、やがて袁紹に滅ぼされました。
公孫瓚は人格はともかく、努力して実力で成り上がった人物です。実力も無い世襲の二世、三世が大嫌いでした。人材起用の点では曹操に似ています。惜しいのは君主としての器に少し欠けていたというところでしょうか?
※参考文献
・石井仁『魏の武帝 曹操』(初出2000年 後に新人物文庫 2010年)
・狩野直禎「後漢末地方豪族の動向―地方分権化と豪族―」(中国中世史研究会編『中国中世史研究』 東海大学出版会 1970年所収)
・高島俊男『三国志 人物縦横断』(初出1994年 のち『三国志きらめく群像』ちくま文庫 2000年)
・宮川尚志『六朝史研究 政治・社会篇』(平楽寺書店 1964年)
・渡邉義浩『図解雑学 三国志』(ナツメ社 2000年)
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