NHK大河ドラマ麒麟がくる、5月17日の放送からは新章「越前編」が始まりました。長良川の戦いで斎藤道三が息子の高政に敗北した結果、道三についていた明智家も攻撃対象となり、十兵衛は一門を連れて越前へと落ちて行ったのです。
しかし、そんな麒麟がくる、もしかしたらラストの本能寺の変がカットされるかも知れません。それは、一体、どういう事なのでしょうか?
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麒麟がくるは全44回で尺が足りない
大河ドラマ麒麟がくるは、2020年の東京五輪中継が夏に入った事により、当初から通常のNHK大河よりも回数が少なく44回しかありません。つまり物理的に少ない回数で明智光秀の一生を追わないといけないわけです。さらに、今回の麒麟がくるは、謎に包まれた明智光秀の前半生を克明に描いた美濃編で17回も話数を費やしています。
つまり、残り27回で織田信長の上洛から光秀との再会、織田家の家臣になった明智光秀が比叡山焼き討ちで頭角を現わし近江坂本に居城を構え、さらに丹波を苦闘の末に陥落させて、34万石の大名になり、四国平定の調略を任されるも信長の気まぐれで、上手く行かなくなり、ライバル羽柴秀吉に信長の信任を奪われ本能寺の変に到るまでを描き切らないといけません。
すでに、織田信長の家臣になっているならまだしも、現状の光秀は朝倉義景の居候のような扱い、まだしばらく不遇が続きますから、なんだかんだで足利義昭を織田信長に出会わせるまでに、残り4回はかかりそうです。そうなれば、織田家の家臣になる頃には22回で、完全な折り返しポイントです。いくらなんでも、たった22回で重厚な明智光秀の人生の後半を描けるでしょうか?
麒麟がくるは倒叙法のドラマ
麒麟がくるのオープニング、冒頭は明智光秀のアップで始まります。あのシーンは光秀が主君である織田信長を討つ事を決意したシーンだと推測できます。どうして、ドラマの冒頭が光秀の破滅を暗示するシーンなのか?
kawausoは色々考えてみましたが、今回の大河ドラマは倒叙法の方式を取っているからだと思われます。
つまり、NHK大河ドラマを視聴するような人は、99%明智光秀が最期に本能寺で織田信長を討つという衝撃のラストを知っています。だから、淡々と光秀の青年期から本能寺までを撮影しても当たり前すぎて面白くなりません。なのでドラマは最初から、どうして光秀が織田信長を討つ事になるのかに焦点を当てて撮影されていて、光秀が信長を討つ動機が明らかにされた時に終わると思うのです。
何故なら、麒麟がくるは本能寺の変に到る光秀の動機を描くドラマであり、それさえ描ききれば、結果の知れた本能寺の変など、おまけになるからです。
序盤から繰り返される二人の性格描写
麒麟がくるの特徴は、登場人物の性格描写の細かさです。例えば、染谷将太演じる織田信長は極端に人の心が分からない人物として描かれています。全てを額面通りに受け取り相手を善意で見て追い詰め、裏切られたと知るや猛然と復讐する敵か味方かしか認めない人です。一方の光秀は、やや生真面目な部分があるものの、人の気持ちを忖度し過ぎてしまい相手に振り回されてしまうという、信長の逆タイプになっています。
もちろん、光秀はよい人であると同時に、頭も鋭いのでいつまでも振り回されはしません。つまり、信長と光秀は光秀が信長を許容できる限りは上手く行きますが、許容できなくなった時に決定的な決裂に至る時限爆弾の関係なのです。
光秀の爆弾は武士の誇りと天下静謐
では、明智光秀がどうしても許容できない心の時限爆弾はなんでしょうか?
これは、亡父明智光綱の言った誇りを失っては武士ではないという誇りと、麒麟を連れてくるのに必要な天下静謐、つまり平和を願う心です。2つが踏みにじられた時に光秀は爆発し、命を賭しても己を貫こうとするでしょう。では、いつ?光秀の時限爆弾を信長は押してしまうのでしょうか?
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