アルハラ君主孫権、しかし、孫権が腹を立てて殺した人物というのはそんなに多くありません。黄祖は孫家全体の仇でしたし、個人としては孫権の政治を批判して死罪になった沈友等がいる位です。ところが、そんな我慢強い孫権ですが、どうしても殺さずにはおけない程に恨み、遂には城ごと屠ってしまった人物がいます。その名は李術と言い廬江太守でした。ですが、どうして李術はこんなに孫権に恨まれてしまったのでしょうか?
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民が逃げるのは貴様に徳がないからだ!by李術
李術は豫州汝南郡の出身で、孫策の時代に廬江太守に任命されました。しかし、孫策が死ぬと後を継いだ孫権を認めようとせず、曹操が任命した揚州刺史の厳象を殺して独立傾向を強めました。そればかりか、李術は孫氏からの逃亡者や謀反人を次々と廬江で匿うようになります。
孫権は李術に書簡を送り、逃げた罪人を捕まえてほしいと要請したところ、李術は「徳があれば人は従い、徳が無ければ去っていくのが自然の摂理だ、捕らえてやる事は出来ない」と嘯いた返事を送りました。この、お前は徳がないから住民が逃げるのだという李術の上から目線に、孫権は激しく腹を立てる事になります。
崩壊寸前だった孫呉
今回の逸話は正史三国志を補う、江表伝のもので、本当かどうか真偽不明です。しかし、覇王であった孫策の死後、無名の孫権が後を継いだ事で、領地の住民や豪族が不安を感じて続々と逃げ出すという事は当時としては普通の事だと思います。
事実、張昭は、孫権が孫策の死をいつまでも嘆いて泣いているのを叱責して、今は非常時なので感傷的になっている暇はないとして、喪服を脱がせて平服に着替えさせ、賊を平定するという象徴的な意味がある馬上に乗せるという事をやっています。
このような孫呉が崩壊するかも知れないという状態の時に、李術にお前には徳がないと上から目線で言われたわけで孫権としては激しく恨むに足る状況でした。
曹操に李術をチクる事を思いつく孫権
このように李術にバカにされた孫権は、自ら李術を討伐する事を決意します。
しかし、李術も孫権も、一応漢の臣下という立場であり黙って討伐軍を出すと、それが問題にされかねない恐れがありました。そこで、任命権者の曹操に対し李術を処罰するので許可してくれという手紙を書いて、曹操に出したのです。
恨み爆発の孫権の手紙
その手紙は以下のような内容でした。
厳刺史は、昔あなたが任命した人物であり私を推挙してくれた恩人でもあります。廬江太守の李術は凶悪な男であり、漢の制度を軽んじて法律を破り、無道にも厳刺史を殺害し、ありとあらゆる不法行為をしています。ここは、可及的速やかに李術をブッコロ!して。社会のゴミを懲らしめるのが妥当でしょう。
今、私が李術を討つというのは、大きい視点では国家に蔓延る巨悪をルンバ(掃除)し小さい視点では私の恨みを晴らす事になり、これは大変スカッとします。これは天下の道理というもので、私は毎日、毎夕李術がブッコロ!になる時を待ちわびるものです。
とは言っても、お気をつけ遊ばせ!あのズルい李術の事なので、きっとブッコロ!が近くなれば嘘八百を並べて泣き叫び救援を求める事でしょう。あなたは宰相の地位にあり万人がひれ伏す尊い立場です。願わくば李術を捕らえても、あやつのたわごとに耳を貸しませんように、頼むよホントに
多少誇張して、話を面白く盛っていますが、とにかく、俺に恥をかかせた悪党の李術をブッコロ!にするので、了承しておいてくれよというのです。
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