楊彪とは誰?陳寿の正史『三国志』より解説!董卓残党から献帝を救った学者


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楊彪とは誰?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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弘農郡の段煨

歴史書をつくる裴松之

 

楊彪は長安脱出の時に何をしていたのでしょうか?正史『三国志』に注を付けた裴松之(はい しょうし
)
が採用した『献帝記(けんていき)』という史料によると、楊彪は弘農郡出身であることから河を船で移動することは困難であることを進言します。献帝は納得して弘農郡を陸路で移動。途中で弘農郡に駐屯している段煨(だんわい)に助けを求めました。マイナーで知られていないのですが、この人は董卓軍の残党です。董卓は長安遷都の際に、ほとんどの武将を長安に同行させたのですが、段煨(だんわい)は弘農郡に抑えとして残していたのです。

 

幸いにも袁紹たちがすぐに撤退したので段煨が戦闘をすることはありませんでしたが、董卓はそのまま段煨に農業振興を任せていました。いつの時代も農業振興をするには地域社会と密接な関りが大事です。史料で確認がとれる限り、段煨は初平2年(191年)から建安7年(202年)ごろまで行っていたようです。他所の土地の人だったとはいえ、かなり地域社会との関わり方が上手な人だったのでしょう。

 

段煨が董卓暗殺後、長安の李傕・郭汜と関りを持ったという話は史料に無いので彼は中央政界とは一線を画していた人物だったと分かります。楊彪はそんな彼だからこそ、たとえ董卓軍の残党とはいえ助けを求めたのかもしれません。

 



楊彪の作戦失敗

 

ところが上手にうまくいかないのが世の中。献帝に協力してくれた董卓配下の残党に楊定という人物がいました。楊定は董卓暗殺後直後は王允配下となりますが、王允に従うのが嫌になり李傕に寝返ります。しかし李傕が形成不利になると郭汜に従い、それが嫌になったら献帝に仕えます。良い言い方をすればフリーランス、悪い言い方をすればただの変節漢。

 

楊定は献帝と一緒に段煨がいる弘農郡に到着します。これが仇になりました。実は以前から楊定は段煨と仲が悪かったのです。楊定と段煨がどうして、仲が悪いのか史料には記されていませんが、今こそ昔の恨みを晴らすチャンスと思った楊定は段煨を攻撃開始!これだけで10日以上も献帝は弘農郡に足止めをくらいました。そうしている間に、李傕が追いついてきて死闘になります。なお、楊彪の親族である楊衆が奮戦したのはこの時でした。

 

曹操との確執

献帝

 

献帝と楊彪たち一行はボロボロになりながら洛陽に到着・・・・・・だが洛陽は荒廃しており、とてもじゃないが住めるレベルではありません。建安(けんあん)元年(196年)に献帝は曹操(そうそう)に保護されて、1年に渡る逃避行は終焉を迎えます。楊彪は献帝と一緒に許昌に行きますが、同時に太尉を辞任します。

 

なお『後漢書(ごかんじょ
)
』によるとこの時期、曹操と楊彪に確執があったことが記されています。曹操が宴会の席にやって来ると、楊彪は良い顔をしませんでした。何を察したのか曹操はすぐに退場。

 

楊彪が病気を理由に太尉を辞任したのは、それから間もなくでした。お互い何か含む所があったのでしょう。楊彪の病気は曹操と距離を置くためのウソの可能性が高いです。

袁術と楊彪

 

ちなみに楊彪は袁術と親戚関係であったことから、曹操に処罰されかけますが孔融の働きにより助かります。当時の曹操は献帝を擁立したとはいえ、弱小群雄の1つに過ぎません。曹操にとって汝南袁氏と並ぶ弘農楊氏は脅威的存在だったのかもしれません。

 

曹丕からのスカウト

曹丕と曹植

 

晩年の楊彪は良いことはありません。息子の楊脩(ようしゅう
)
は曹操から可愛がられて、曹植(そうしょく)の家庭教師に抜擢されました。やがて曹丕(そうひ)と曹植の間で後継者争いが起き、最終的には曹丕が勝利。

 

曹植は軟弱ではなかった

 

曹植とその一派は没落しました。そして建安24年(219年)に楊脩は曹操により殺されました。黄初元年(220年)に(220年~265年)が建国されると、曹丕は楊彪を太尉としてスカウトします。この時期の太尉は名誉職のようなものであり、実権はありません。曹丕は年長者を尊敬するという意図でスカウトしたのです。

 

だが楊彪は、「自分は後漢の宰相でありながら何も出来ませんでした。どうして魏の宰相なんかできましょうか」と丁重に断ります。楊彪はその後、官職に就くことはなく黄初6年(225年)に84歳の生涯を閉じました。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

楊彪は楊脩と親子でセットであるため印象が薄いのですが、調べてみるとこんなに濃ゆいことが分かりました。また、楊彪・楊脩親子の一族である弘農楊氏は曹操・曹丕のせいで一族が絶えたわけではありません。意外なことに西晋(265年~316年)以降まで残っているのです。

 

弘農楊氏の続きについては、いずれまた解説いたします。

文:晃

 

※参考文献

・落合悠紀「後漢末魏晋時期における弘農楊氏の動向」(『駿台史学』144 2012年)

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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