初平3年(192年)に董卓は養子の呂布と王允の手により殺害されました。董卓暗殺の報告を聞いた残党の李傕と郭汜は、敵討ちのために長安に突入。王允を殺害して、呂布を追い出しました。しかし間もなく、残党内部で内ゲバが勃発。長安は戦場となります。
興平2年(195年)に長安にいることが嫌になった献帝は脱出して洛陽を目指します。この時に同行をしていた人物に宰相の楊彪がいました。今回は正史『三国志』をもとに楊彪について解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく解説しています。
四世三公 弘農楊氏
楊彪は弘農郡華陰県の出身です。先祖は項羽討伐で功績を挙げた楊喜と言われていますが、これに関しては疑問視する声が多いので、おそらく家に箔を付けるためのウソと考えられます。実際に史料で確認がとれる弘農楊氏の開祖は後漢(25年~220年)初期の楊震と言われています。楊震は40代になっても政治家として世に出ることはせずに、学問をしながら生計を立てていました。
そして50代になりようやく学識が認められて政界進出を果たします。要するに遅咲きの人物でした。その後、弘農楊氏からは4代に渡り三公を輩出します。三公とは3つの宰相職であり、太尉・司徒・司空をまとめたものです。楊氏が就任していたのは太尉でした。上記のことから弘農楊氏は「四世三公」と呼ばれました。ちなみに袁紹・袁術の家である汝南袁氏も四世三公です。つまり、楊彪と袁紹・袁術は家柄では同格なのです
董卓政権に仕える
中平6年(189年)に大将軍の何進は宦官の手により殺害されます。怒った袁紹と袁術は宦官を皆殺しにしました。この非常事態は何進が呼び寄せた董卓が政権を握ったことにより終息を迎えます。ところが、袁紹は董卓に仕えたくないことから洛陽を出ていきます。
やがて袁紹は初平元年(190年)に曹操と一緒に打倒董卓を目指して洛陽を攻撃開始。一方楊彪は董卓政権で三公の1つである司徒として仕えていました。もちろん本意ではなく無理やりでした。
長安遷都に反対
董卓討伐軍の勢いは凄く董卓軍の華雄は孫堅に討たれてしまいました。迫ってくる討伐軍の前に董卓は長安遷都を決定します。長安方面は『キングダム』の政が治めていた土地ですし、前漢(前202年~後8年)の首都ですから縁起が良い。また、長安方面には馬騰・韓遂がいるので彼らの強力があれば城を建設する材料が提供されるからでした。
しかし楊彪は「長安が首都だったのは、かなり昔の話です。首都としての機能はしていません」と反対します。怒った董卓は楊彪の役職である司徒を解任しました。普通ならば楊彪は袁紹と同じように出て行ってもおかしくないのですが、それをしないで一族を引き連れて献帝と一緒に長安まで同行しました。董卓も楊彪を殺すことはせずに長安遷都後は再び、三公の1つである太尉に登用しています。どうやら董卓も彼の実力は認めていたようです。
長安脱出と弘農楊氏の死闘
初平3年(192年)に董卓は王允と呂布の手により殺害されました。だが、董卓軍の残党である李傕・郭汜により返り討ちにあって王允は処刑。呂布は逃亡します。終わったら董卓軍の残党は血みどろの内ゲバを始めます。嫌気がさした献帝は興平2年(195年)に長安を脱出して洛陽を目指します。
怒った李傕は献帝を連れ戻そうとします。『後漢書』によると鍾繇と楊彪の一族である楊奇が李傕軍で反乱を起こさせて打撃を与えました。反乱を鎮圧すると李傕は、しつこく追撃。楊彪の故郷である弘農郡で死闘が展開されて、朝廷の多くの人馬が失われました。この時に楊彪の一族である楊衆が奮戦して献帝を護衛します。
建安元年(196年)に曹操が献帝を保護した際に楊奇の子の楊亮と楊衆には莫大な恩賞が下されました。どうやら楊奇はこの時点で亡くなっていたようです。病死か戦死なのか不明です。
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