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疑惑:法正の狙いは最初から夏侯淵では?
戦争の流れを見ると、どうも、法正の狙いは最初から夏侯淵だったような気がしてなりません。
劉備も法正と口裏を合わせ、最も討つべきは張郃と意図的に連呼する事で夏侯淵の警戒心を削ぐ狙いがあったのではないでしょうか?
確かに、戦の力量では張郃が上かも知れませんが、夏侯淵は元帥であり曹操に直接に漢中守備を任されているので、夏侯淵を先に討つ方が魏軍はガタガタになる筈です。実際、郭淮が張郃を臨時の大将につけて落ち着かせないといけない程に魏軍は浮き足だっていました。
劉備はもちろん、あわよくば戦上手の張郃も討ちたかったでしょうが、この場は法正と口裏を合わせる事で、夏侯淵を油断させる事に一役買ったように思えてなりません。なにより漢中を手に入れるには、敵の大将を討つのがベストですしね。
劉備に仕える事6年で死去する
夏侯淵を討たれた曹操は激怒し、長安から陽平関に向かって進軍しますが、劉備は法正の進言に従い、堅く守って出て来なかったので次第に魏軍の損害は大きくなり、食料にも乏しくなったので退却していきました。これで劉備は、巴蜀と漢中を得て蜀漢の礎を築くのですが、西暦220年に法正も45歳で死んでしまいます。劉備が益州の主になってより僅か6年の寿命です。
何と言うか、劉備に蜀を建国させるために出て来た人材のような気がしますね。人の好き嫌いが激しく平気で毒を吐く法正ですが、死に際の儚さがあるから、そこまでアンチがいないのかなと思います。
三国志ライターkawausoの独り言
劉備の蜀取りには二人の恩人がいます。1人は実際に巴蜀を取らせた龐統、もう1人は漢中を奪還させ蜀漢を長期政権にさせた法正です。二人とも個性が強く劉備に仕えた期間が短い点が共通していますね。
参考文献:正史三国志
関連記事:漢王朝の立役者?法正の死因とはいったい何だったのか考えてみよう
法正(ほうせい)・年表
所属:蜀(しょく)
姓名:法正(ほう せい)
字:孝直(こうちょく)
出身地:扶風郡郿県(ふふうぐんびけん)
生没年:176年 - 220年
関連年表:
196年:飢饉の影響で同郷の孟達と共に益州牧の劉璋に身を寄せる
214年:劉備軍に参軍
215年:劉備が益州支配に成功したことにより、功績に蜀郡太守・揚武将軍に任じられる
219年:定軍山の戦いに参戦。策を献じ黄忠に命じて夏侯淵を討ち取るなど勝利に導く
220年:尚書令・護軍将軍に任命
220年:死去(病死)
参考書籍:三国志完全ビジュアルガイド