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この記事の目次
謎の整理
ここまで読んでくださっても結局最初の謎はあまり解決されていませんか?
そうなんです。ですが、いちおう整理しておきましょう!
【謎1】
「なぜ、信長は圧倒的不利な状況で勝利することができたのか?」
籠城せず、奇襲によって大将の今川義元を討ち取ったから。
【謎2】
「どうやって信長は勝ったのか?」
情報を重視し、誰も想像しなかった(時間差攻撃の)奇襲を行ったから。
【謎3】
「なぜ信長は城で守りを固めずに、撃って出たのか?」
本文であまり触れていませんが、信長は8年をかけて平定した領土を失いたくなかったと思われます。特に、海岸線付近は織田家の財政を支える交易の源であったからです。また、籠城すれば負けるだろうと考えたと思います。そう、唯一の勝機が奇襲でした。
【謎4】
「今川軍はなぜ総大将を討ち取られるというようなことになってしまったのか?」
答えは、奇襲を受けた場所は道が細く、スピーディに退却できなかったから、です。
戦いの後
この戦いの後、第一の手柄とされたのは、簗田政綱でした。覚えておられますでしょうか?
そうです、今川義元本陣の場所を正確に伝えた人物です。普通は、討ち取った毛利新助になるはずなのに、とんでもない異色の論功行賞となっています。この、なにより情報を重視するという姿勢こそが織田信長の特徴だといわれています。
そして、歴史は大きく動き出します。信長は、自分は戦争が得意なのだという自信を深めます。そして、天下布武というキャッチコピーを掲げ、武力によって日本全てを領土にするという目標を打ち上げるのです。その宣言通り、数年後には当時の首都京都を中心とする地域のほとんどを支配することになります。
日本全土には及びませんでしたが、それまで誰にもできなかった画期的なことを成し遂げたのです。桶狭間の戦い、このとき織田信長26才。この天才の名前が、日本全国に知られるようになる出来事でした。
戦国ライターしばがきのひとりごと
織田信長は、歴史ファンでなくとも知っているような偉人です。その最初の大きな戦の桶狭間の戦いは、まだまだ謎ばかりです。今回、なるべく資料に基づいて掘り下げてみましたが、間違いや後世の脚色であることも多いと思います。気になった方は、他の方の書かれているものなどをあたってみて頂ければありがたいです。全く違った説も、また楽しいです!
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