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この記事の目次
謎4:総大将を討ち取られる謎展開
「今川軍はなぜ総大将を討ち取られるというようなことになってしまったのか?」
戦国時代の戦で、その場で総大将が討ち取られるということは、実はそれほど多くはありません。この「桶狭間の戦い」のほかに「沖田畷の戦い」、「有田中井手の戦い」などがありますが、例は少ないです。(他の詳細はまた別の章でふれています)意外でしょうか?「戦国時代やし、めちゃめちゃ殺し合ってたんちゃうん?」
と思われるかもしれませんが、彼らもプロなので、戦況でおおよその勝敗が途中で分かります。そして退却するので、戦いの中で討たれてしまうということが少ないのです。囲碁や将棋などでも、まだ途中なのに「参りました」といって終わることがありますよね?
あれも同じです。勝負のことをよく分かっている同士が行っているので、勝つか負けるかというのが判断できるということですね。ですが、桶狭間では総大将が討ち取られてしまっています。このことが、今川軍の敗北を決定付けました。大きな謎はざっとこの4つです。
では、このあとこれらを解明していきましょう!
実際にはどのあたりだったのか、谷なのか山なのか?
謎の解明の前に、桶狭間とはいったいどこだったのでしょうか。気になりますよね?おおよそこのあたりだといわれています。
左上の方にいくと名古屋です。熱田神宮がかろうじて見えていますね。さらに、このあと名前が出てくる城や砦とのおおまかな位置関係はこのようになります。
籠城の案があった清須城はもっとずっと北になります。もちろん、信長はその清須城から出陣しています。桶狭間というのは、沓掛城と大高城の間にあります。義元は、大高城を拠点に、中島砦・善照寺砦・鳴海城を攻めるつもりであったようです。その大高城に、先陣として入っていたのが松平元康(後の徳川家康)。
今川軍は、常にこの松平元康を攻撃の前線に置いていました。ですので、このあと元康に北上させて攻める予定なので、大高城の守備として、また前線で指示を出す基地として入城しようと考えていたのでしょう。信長からの攻撃を受けたのは、その道中ということになります。
「桶狭間」という名称から「谷」のように誤解されることが多いのですが、実際は「山」です。信長の足跡を記した第一級の資料『信長公記』では「おけはざま山」と書かれています。ですが、その「山」もやや誤解を招くのではないかと思います。
現代の、地理学的な用語でいうと、「丘」です。このあたりは丘陵地帯で、海に向かってゆるやかに低くなっていきます。また、もちろん河川があればそこが谷となり、そちらにも低くなっていきます。当時はこの丘の高いところ、いわゆる「尾根」のような部分が道になっていたと考えられます。
義元は、その尾根を進軍していたのでしょう。これは戦略上かなり優位な状態といえます。なぜなら、そこより低いところにある城や砦がおおよそ見えていたはずです。これならば、織田軍が攻めてきたとしても、その姿も見えますし、高いところから迎え撃つので有利になります。義元はこうやって着実に勝利の手順を踏んでいました。しかし、そこに思わぬ事態が!この後は、両軍の動きを時系列でおっていきます。
織田軍からの視点
まずは、織田軍の動きを前日から。永禄3年(1560年)[5月18日夕方]、松平元康が大高城へ入城。信長は清須城でこの報せを受け、軍議を開きます。しかし、籠城とも出陣とも決めないままにして、家臣を帰らせます。
この期におよんで様子見か!と、嘆く家臣もいたとか。夜が明けていない[19日未明]に、松平元康が丸根砦を夜襲!同時刻に鷲津砦も攻撃されます。さすがの義元、考える暇を与えてくれません。その報せを受けた信長は、あの有名な「敦盛」を舞います。
人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て滅せぬ者のあるべきかその後すぐに出陣の命令を下し出発。同行できたのはわずか5騎だけでした。[午前8時頃]、信長は熱田神宮に到着。戦勝祈願をします。信長の後を追ってきたのはこの時点では2百人程度でした。同じころ、義元は沓掛城を出て、大高城方面に向けて出陣(5千程度?)。
[10時頃]、信長はやや迂回して佐久間信盛の守る善照寺砦に入ります。ここに義元の深謀遠慮がありました。なんと海の満潮時刻に合わせて攻撃を仕掛けてきていたのです。そうすれば、海沿いの最短ルートが通れず援軍を派遣しにくいということを考えていたのでしょう。
なんたる知略。そして、信長はその善照寺砦で軍勢をととのえます。この時の軍勢は1千~1千5百。[10時30分頃]、丸根・鷲津両砦が激戦の末に陥落。松平元康は大高城に戻り休息。
[正午頃]、今川義元本隊は「桶狭間」の丘付近を通行します。その頃、織田家中でも武勇に名高い佐々政次(さっさまさつぐ)が砦から撃って出ます。
兵は300人だったと記録に残っています。今川軍からの見えやすかったことから、早々に撃退され、佐々政次をはじめ50騎が討ち取られました。それを高所から見た義元本隊は、一息ついたという感触から、休息がてら昼食をとったということです。信長は、さらに先の中島砦へ進軍。
兵数は2千に満たない数でした。その様子は今川方から丸見えでしたが、数が少ないので、それほど危険だとは思われてなかったようです。ここで、信長は歴史に残る名演説をします。
「聞け、敵は宵に兵糧を使ってこのかた、大高に走り、鷲津・丸根にて槍働きをいたし、手足とも疲れ果てたるものどもである(敵は疲れている)。
くらべてこなたは新手である(わたしたちは元気だ)。小軍なりとも大敵を怖るることなかれ、運は天にあり、と古の言葉にあるを知らずや(少ない軍勢でも大軍を恐れることはないと昔から言われている)。
敵懸からば引き、しりぞかば懸かるべし(敵が向かってくるようなら引き、退却するようなら攻撃せよ)。而してもみ倒し、追い崩すべし(そうやっていき、最終的に崩していくのだ)。分捕りはせず、首は置き捨てにせよ(首〔手柄の証〕も捨てていけ)。
この一戦に勝たば、此所に集まりし者は家の面目、末代に到る功名である(この1戦に勝てば。みなの名前は後世にまで残るだろう)一心に励むべし(一生懸命やれ)」
首を捨てていけ、というスピード重視の命令をしながら、相手の行動に合わせて攻撃しろという実践的なものを織り込んだ指示ですね。その意気を押し殺して、信長たちは中島砦ひっそりと出て、義元本陣を目指します。砦に旗を高々と掲げたまま!
ここで、簗田政綱が義元本隊の場所を正確に伝えたとされます。そして、信長の進軍中、急な雨が降ったとされています。これにより、今川軍から悟られなかったといわれています。雨が上がったころ、織田軍は今川軍本陣にとても近づいていました。そして、丘を駆け上がりながら突撃。今川軍は、想定していなかった攻撃に総崩れとなります。
混乱の中、義元はとっさに退却を命じますが、道が細く軍が思うように動けません。義元本陣は300騎ほどで退却していました。そこに織田軍が猛追します。信長も最後の攻撃に加わったと伝わっています。
[午後2時頃]、遂に義元が討たれます。最後は服部小平太が槍で義元を刺し、毛利新助が後ろから組み付いて首を取ったということです。この戦いでの戦死者は、今川軍2500人、織田軍830人ほど。2時間という短時間決戦でした。
今川軍からの視点
今川軍から見た流れも少しだけお伝えします。今川義元は、約2万5千人(仮定)の軍勢を率いて永禄3年(1560年)5月12日に駿府を出発。先鋒は井伊直盛でした。
5月18日義元は沓掛城入城。その夕方、松平元康が大高城への兵糧入れに成功。ここで、岡崎、知立、今岡に数千、沓掛に1千5百の兵を残したといわれているので、翌日の義元本体は5千程度といわれます。19日未明に、松平元康が丸根砦を攻撃し、井伊直盛が鷲津砦を攻撃。
満潮時を狙った夜襲により義元完勝。義元は、朝になり悠々と大高城へ向けて進軍開始。正午頃、桶狭間付近。織田軍の一部(佐々政次)が攻撃してきますがあっさり撃退。義元は、見晴らしもよく、天気もいいので桶狭間の丘付近で休むことにします。
諸説ありますが、このときに義元軍が酒を飲んだといわれています。その記述が、武田家を描いた「甲陽軍艦」にあります。ですが、おそらくそれが真実であったとしても1部の者だけだったでしょう。
今川軍はそんなに緩い軍隊ではなかったからです。その頃、信長たちは砦を出ていますが、その後雨が降りだしたこともあり、今川方の見張りは気づきませんでした。中島砦の旗が減っていないことや、さきほどの佐々の突撃の後すぐに攻撃してくるとは考えにくかったのです。
ですが。雨が上がった頃、いきなり前方から声が上がり織田軍が駆け上がってきます。このとき、今川軍は道に沿って細長い陣形になっていました。前方が攻撃を受けましたが、後方の義元はよく分かりません。ですが、ここでも義元はすぐに正解の判断を下します。
退却。このとき、義元からすれば沓掛城はそれほど遠くありません。敵襲を受けたとしても、城に戻れば安全です。が、その退却よりも織田軍の攻撃の方がスピードが上回っていたのです。午後2時頃、41才の義元は、織田軍の20代の若武者たちに討とられてしまうのです。
奇襲だったのかどうか
最近では、この戦いは奇襲ではなく、正攻法であったといわれることもあります。それは、昔からいわれていたような、織田軍が義元本陣の側面や後方に廻りこんだのではない、ということからきています。そう、文献から推測すると義元本陣の正面に突撃したのだと思われるのです。
ですが、正面から突撃すれば奇襲ではないのでしょうか?
いいえ、やはりこれは奇襲なのです!信長は砦に旗を掲げて、さも砦に軍を配置したという偽装をしています。そして、ほんとうにひっそりと今川方の死角から進軍していったのです。正面きって戦うと負けるのは佐々の討ち死にでもよく分かっています。
また、佐々の突撃を、ある種の陽動(時間差攻撃)のようにできないかと信長は考えたかもしれません。なので、雨の中、息を潜めて行軍したはずです。そして、今川軍の目前になって一斉に声を上げたのでしょう。そのときの今川軍は、どれほど驚いたことでしょう!
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