公孫瓚の逸話は三国志演義と正史で異なる!公孫サンのおもしろ逸話

2019年5月29日


 

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公孫サン(公孫瓚)

 

三国志演義(さんごくしえんぎ)を題材にしたマンガやアニメやでは白い甲冑に身を包み、白馬にまたがる華麗な姿で登場することも多い北方の雄、公孫瓚(こうそんさん)。しかし実際にはかなりクズな性格をしており、自業自得ともいえるみじめな最期を遂げるなど、正史と三国志演義でかなり描かれ方が異なる英傑の代表格です。

 

今回は、三国屈指のギャップ将軍・公孫瓚にスポットを当て、その残された逸話を紹介していきましょう。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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劉備3兄弟を援助し反董卓連合に参加…は演義によるフィクション

公孫瓚と劉備

 

三国志演義における公孫サンは、盧植(ろしょく
)
の元で共に学んだ劉備(りゅうび)をまるで弟のように可愛がり、桃園三兄弟(とうえんさんきょうだい)を引き連れ袁紹(えんしょう)袁術(えんじゅつ)孫堅(そんけん)らとともに、第十四鎮として反董卓連合に参加。

 

 

赤兎馬にまたがる呂布

 

 

虎牢関(ころうかん
)
の戦いでは、王匡(おうきょう
)
配下で鑓の使い手・方悦(ほうえつ
)
孔融(こうゆう)配下で鉄槌を操る武安国(ぶあんこく
)
など、武名を知られる武将たちが敢え無く敗れ去った呂布(りょふ)へ、何と一騎打ちを挑んだのです。

 

苦笑いするしかなかった公孫サン(公孫瓚)

 

そりゃ無謀だって公孫瓚、数合も交わさないうちに彼は敗走するのですが、続いて呂布に立ち向かった張飛(ちょうひ)関羽(かんう)劉備(りゅうび)に救われる、という見せ場を作ることになります。

 

 

三国志の主人公の劉備

 

 

また、袁紹(えんしょう)に公孫瓚が敗れ死んだことを知った劉備が、「公孫瓚のアニキが死んだ!仇討の兵を貸してくれ曹操殿!」と願い出て許され徐州(じょしゅう)へ出兵したのをきっかけに、再度群雄として雄飛するという設定になっています。

 

 

橋瑁が決起文を送り反董卓連合軍結成

 

 

しかし、そもそも公孫瓚は反董卓連合に参加していないため、呂布との一騎打ちや劉備三兄弟に助けられたエピソードは全部デタラメ。

 

 

酒を飲む曹操と劉備

 

 

劉備が徐州に向かった理由も公孫瓚の仇討などではなく、袁紹との結託を恐れた曹操から、徐州の袁術討伐を命じられたからにすぎません。つまり、公孫瓚は三国志演義の主役である劉備の知り合いだったことで、序盤における蜀陣営の引き立て役として利用されたのです…、何か可哀そうになってきました。

 

 

 

容姿端麗にして多才そしてイケメンだったとされる若き日の公孫サン

公孫サン(公孫瓚)

 

 

公孫瓚は、先祖代々郡太守クラスを歴任する有力豪族のことして生まれるも、母方の身分が卑しかったため若い頃はあまり優遇されず、郡に仕官し初めて得た、「門下書佐」という官職は役所の事務員といったところ。

 

 

袁術

 

 

正直、袁紹・袁術・曹操・孫堅ら名家出身のエリートたちには、到底追いつくはずのない地位からのスタートでした。しかし、頭脳明晰かつ弁舌さわやかで仕事ぶりも良かったため、次第に上司から認められていきます。

 

公孫サン(公孫瓚)

 

何より若い頃の公孫瓚は、とにかく容姿端麗つまりイケメンボーイだったようで、遼西郡で太守を務めていた侯氏に惚れこまれ、ちゃっかり娘婿に収まります。

 

 

三国志大学で勉強する公孫サン(公孫瓚)

 

 

そして、侯氏の支援を受け高名な盧植門下として経書・兵学を学んだことが、後に高簾へ推挙され郎となり北方の勇将として名を馳せる、公孫瓚のサクセスストーリーに繋がっていくのです。

 

 

李傕・郭汜祭り

 

 

 

恩人にどこまでも付き従う義理深さを発揮する公孫瓚

公孫瓚と劉虞

 

 

正史における公孫瓚は、上司である劉虞に立て付き最終的には奸計をもって殺害するなど、不義理で横暴な性格をいかんなく発揮しますが、若き日の彼は上司を敬い、時に自己犠牲も厭わず恩人に尽くす、義理堅い一面を見せています。

 

 

朝まで三国志 公孫瓚

 

 

学問を修め再び仕官した公孫瓚でしたが、上司である郡太守・劉基が法律に触れ、廷尉のもとに連行されることになってしまいます。本来、罪人である太守に部下が付き従うことは禁じられていたものの、公孫瓚は衣服を変え囚人車の従者になりすまし、太守の世話をしたのです。

 

 

公孫サン(公孫瓚)

 

 

いよいよ太守が流刑と決まると、公孫瓚は米と肉をお供えとして北芒山の上で先祖を祭り、盃をかかげて祈りを捧げ、涙ながらに先祖へ今生の別れを告げます。

 

このとき、そのありさまを見ていた者はみなすすり泣いたと言いますが、公孫瓚は故郷に別れを告げ、太守の流刑先へ骨を埋める覚悟を決めていたということ。結局、流刑地へ向かう道中で劉基は赦免され、公孫瓚は無事帰還することができたのですが、彼の義理深さが良くわかる印象的な逸話だと言えます。

 

 

 

異民族から「白馬長史」と恐れられた勇将だったのも事実

鮮卑賊

 

無事任地へ戻った公孫瓚に与えられた官職は遼東郡属国の長史、あるとき数十騎をひきつれてパトロール中、辺境の砦付近で数百騎の鮮卑族を発見します。人気のない物見台の中に身をひそめた公孫瓚は、多勢に無勢と尻込みする部下の騎兵に、「ここを突破しなければ皆殺しになるぞ!」と一喝するや、手にした矛の両側に刃をつけ馬を走らせ、鮮卑族に突撃・撃退します。

 

この戦闘で公孫瓚は部下の半数近くを失いますが、彼の勇猛さに恐れを抱いた鮮卑族は、その後二度と国境を越えて侵入しようとはしませんでした。また、公孫瓚は自らと烏丸族から吸収した騎射に優れる精鋭部隊の馬を、全て白馬に統一し「白馬義従」と名付けて常に引き連れていたため、異民族らから畏怖を込めて「白馬長史」と呼ばれていました。

 

 

悪来と呼ばれた典韋

 

三国志の登場する勇将の中には、曹操のボディーガードであった典韋の「悪来」や、わずか数年で江南を制した孫策の「小覇」など、通り名が付けられていることも多いですが、公孫瓚の「白馬長史」もなかなかカッコいい異名と言えるでしょう。

 

 

問題は傲慢で自分勝手な性格ですよ伯珪君!

公孫サン(公孫瓚)

 

文武両道で才能にあふれ、ハンサムかつ義理深かった公孫瓚が、無残であっけない最期を遂げた最大の要因は彼のクズ過ぎる性格にあるでしょう。劉虞と対立に殺したことで人心が離れたのも大きいですが、公孫瓚の元には優秀な人材が集まらず、日和見的なイエスマンばかりだったことも、白馬義従という最強クラスの戦闘部隊を抱えながら、袁紹に大敗を喫した理由と言えます。

 

ではなぜ公孫瓚陣営が人材に乏しかったのか、もちろん運の要素も絡んできますが、公孫瓚の場合は役人の子弟に優秀な人材がいると故意に困窮に陥れ、凡庸な者をばかりを重用したから…、何だい!結局自業自得じゃないですか。もっとひどいのがその理由で、「立派な人物を取り立て富貴にしてやったとしても、自分がそのような官職につくのは名声や実力から当然だと考え、わしがよくしてやっていることに対して感謝しないから」だそうです…。

 

袁紹

 

おそらく、名家出身であるライバル・袁紹への嫉妬もあったのでしょうが、根っからのクズにつける薬はありません、滅亡も当然と言えるでしょう。

 

 

三国志ライター 酒仙タヌキの独り言

酒仙タヌキ 三国志ライター free

 

実は筆者、演義をもとに製作された歴史SLG をプレイする時、能力的には高評価を受けている(政治以外ね)公孫瓚をチョイスして、三国統一を目指すこともあります。

 

クズ過ぎる性格が災いし極度の人材不足に陥り、智将・猛将が揃う袁紹に敗れ滅亡する公孫瓚ですが、列強が集まり荒れ放題の中原から離れている地の利を活かし力を蓄え、早々に袁紹を滅ぼし人材を吸収できれば、統一もそれほど難しくないからです。

 

ただ、ゲームのステータスには「性格」ってないですからねぇ…。

 

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酒仙タヌキ

酒仙タヌキ

小学生のころから司馬遼太郎を読み漁ってきた筋金入り、高校在学中に中国にホームステイしたころから雄大なその魅力に憑りつかれ、いまや晩酌と歴史をこよなく愛する立派な「中年歴男」に。 戦国・幕末はじめ三国志はもちろん、最近では韓流歴史ドラマにドはまり中、朝鮮王朝ロマンに浸りながら嫁タヌキの作るおつまみをつまむのが人生最高の喜び。 好きな歴史人物: 徳川慶喜、上杉鷹山、程昱、荀攸など、どっちかと言うと脇役好き。 何か一言: 歴史はそのまま政治・経済学であり、そして何より人生を豊かにしてくれる「哲学」と考えています。

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