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この記事の目次
関が原の功績
軍事に関連して、もう1つ大きな功績が「関が原」です。あれ?伊達政宗って、関が原に参加してたっけ?とお思いの方。お詳しいですね。そう、あの関が原には行っておりません。
しかし、その間に政宗も戦っております。それが通称「北の関が原」という戦いです。正式には「慶長出羽合戦」と呼ばれているものですね。対決したのは、上杉景勝の軍勢です。そして、この戦いには、愛の字の兜で有名な『直江兼続』と、かぶき者の『前田利益(慶次)』も参戦しております。けっこう豪華な顔ぶれですね。
(直接対決ではありません)
関が原の直前、家康は上杉景勝を攻めておりました。ですが、石田三成らが挙兵したので、西に向かわざるをえなくなります。それで、一緒に上杉を攻めていた政宗にこの方面を任せたのです。そのとき、家康は適当な口約束をします。
「勝って奪った領土は、おまえのものにしていいから」
この言葉に、戦に飢えていた政宗は、奮起して転戦します。ですが、結局この約束は、なんのかんの難癖つけられて、2万石だけの加増で終わります。それでも、家康の後顧の憂いを絶ったという功績は素晴らしいものがありました。政宗は、この後家康に重用されていくこととなるのです。
伊達の騎馬鉄砲隊
政宗独自の戦術では、騎馬鉄砲隊が取り上げられることがあります。これは、騎馬隊が鉄砲を撃つというそれまで誰も考えていなかったものです。小説やドラマなどで描かれる、騎馬隊が鉄砲を撃ちながら突撃してくるというあれです。
大阪夏の陣で行われたといわれていますが、真偽は不明です。また、行われたとしても、あまり成功はしていなかったようです。よくよく考えれば、馬を走らせながらの発砲は困難です。また、馬を止めて、騎乗しながらの発砲もおそらく難しいでしょう。ですので、実際には、騎馬隊に鉄砲を持たせて、敵軍に近づいたところで馬から下りて一斉射撃。
それに驚き、陣形を崩したところに騎馬隊のスピードを利用して突撃する、というものだったようです。しかも、その突撃する騎馬隊は、また別の通常の騎馬隊であったという説もあります。この戦術のアイデアの元になったのは、馬に乗りながら弓を射れるなら鉄砲も撃てるだろ。ということのようです。
ですが、やってみたら「これ絶対無理やん」という感じだったのでしょう。政宗のアイデアマンという側面が伺えるエピソードなので、功績として取り上げさせて頂きました。この後、政宗は「平和な世を作る」という家康の考え方に共鳴していきます。
徳川家との関係
先ほども書きましたが、政宗は家康との交流を深める中で、「平和な世の中を作る」という目標にひかれていきます。若いころは、天下統一という夢まで持っていました。ですが、秀吉や家康、それどころか関東には、上杉や北条など、まだまだ自分よりも大きい相手がいて難しいと感じていました。
彼らに対して、戦争をやり続けないといけません。悩みの中、家康に「天下を太平にしたい」と言われます。こんな、いつも戦ばかりの国でいいのか?
政宗は、その言葉で家康の目標に乗ることにします。家康は、それまでの信長や秀吉の失敗を見て、より強固な体制作りをしていきます。それで、政宗は領国の発展に新たな情熱を傾け始めるのです。そんな政宗の、文化や経済の面の功績もお伝えしていきます。
仙台という地名
現在の「仙台」という地名は、政宗が命名しました。それまでは「千代」です。古い漢詩から取られており、「神々の住むところ」というような意味だそうです。織田信長が「岐阜」というを地名を付けたことに似ていますね。
政宗は、青葉山に現在の仙台城(青葉城)を築城し、城下町や街道を整備。そして改名。ここに、400年以上続く、東北随一の都市が生まれることになります。
奥州米
政宗は農地改革にも取り組みます。これにより米の生産量は大幅に増加。62万石といわれている仙台藩は、実質的には70万石を超えていたともいわれています。距離的に近いこともあって、江戸市中に出回る米の約3分の1は仙台産だったと試算されています。
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