戦国時代の武将として人気の伊達政宗。彼の功績と言えばどんなものを思い浮かべますでしょうか?
軍事・外交的な側面から南奥州の平定。それとも、料理などの文化的な面でしょうか?
そんな、政宗がきっかけとなったもので、現在まで残っているものも多数あります。今回は、そういった政宗の功績を、ジャンル別に解説していきます。
この記事の目次
軍事・外交的側面、苛烈だが成功。
簡単に略歴を紹介しながら解説します。幼少の頃から、父輝宗に英才教育をほどこされてきた政宗。武道だけではなく、学問や文化なども学びます。学問などは特に優秀であったと伝わっています。
10才で元服
元服は、通常15才で行いますが、時期を早めわずか10才で行われます。実際に優秀であったでしょうし、輝宗の期待も高かったのでしょう。ここで『政宗』と名乗ります。父の期待に応えようとします。14才で初陣を飾ります。このころから輝宗の代理として外交を担当していたといわれています。
17才で家督を相続
様々な事情もあって、わずか17才で家督を継ぎます。それまで、輝宗は主に外交で伊達家を支えていました。ですが、政宗は軍事行動を前面に出して周囲の諸侯たちと競り合っていこうとします。ここから、血気盛んな政宗は、苛烈な行動を多々起こしながら、戦と領土拡大に明け暮れます。
(詳細は別の記事をご覧ください)
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そして、それは、当時天下統一目前だった秀吉から目をつけらます。
22才で南奥州を平定
秀吉からの脅しがあって、政宗はここで領土拡大路線を終えます。このとき、政宗は東北地方を平定していたように言われますが、実際は違います。現在の福島県の中通り地方、会津地方、山形県の南部、宮城県の南部のみです。福島県の浜通り地方(海側)と、山形県北部、宮城県北部、それに秋田県、岩手県、青森県などまでは広がっていません。しかし、なーんだと思ってはいけません。
石高(米の生産量)は150万石なのです!え、余計に分かりにくくなりましたか?
では、激しい生き方が似ているといわれる織田信長と比べてみましょう。尾張が57万石です。そして、その平定に8年かかりました。対して、政宗は150万石を5年です!やっぱ天才!
こういった数字から、「伊達政宗が20年早く生まれてくれば天下統一していた」などと言われたりもします。
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