こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
少し気になる
と、ここで少し気になることがあります。この不臣の礼があった時が219年です。また不臣の礼自体は曹操が言ったことですが、そもそもとして夏候惇が言い出したことを考えると夏候惇の要求となります。しかし曹操が魏王となったのは216年。
もしかして夏候惇は三年の間ずっと官位を与えられるのを待っていたのでしょうか……?
と思って、少し調べてみるとこの時代が如何に乱世であったか分かりました。
激動の時代
まず曹操が魏王になったのが216年5月。同年10月に孫権討伐、217年1月に交戦。3月に曹操は帰還するも、夏候惇は残って都督を務めます。
218年に劉備討伐開始。
219年5月に夏侯淵討ち死、曹操退却。
同年曹操は南下、夏候惇と合流、夏候惇前将軍に。
……見ると分かりますが、曹操、夏候惇両名ともとても忙しかったのですね。この時代が如何に激動の時代だったか分かります。これを見てみると夏候惇も夏候惇で、官位を要求するタイミングがなかったのでしょう。
きっかけとタイミング
因みに時期がはっきりとはしていないものの、曹操が南下して夏候惇と合流したのが219年の10月以降となります。そして220年1月、曹操は崩御。つまり曹操に官位を貰えるのは本当にこのタイミングしかなかったのです。もちろん夏候惇がそこまで分かっていたかどうかは分かりません。
しかしもしも曹操が既にこの時に体調を崩していたのなら、夏侯惇は何かしら感じ取るものがあったのかもしれません。また同年に夏侯淵が討ち死したのも引き金となったのでは……そう思うとこの逸話はただ忠義だけでなく、激動と動乱の時代であったこと、そしてその時代が既に終わりに近づいていたことを知らせてくれる逸話の一つとも言えるのではないでしょうか。
三国志ライター センのひとりごと
曹操が崩御した後、3月に夏候惇を曹丕が大将軍に任命しました。そして翌4月、夏候惇もこの世を去ります。夏候惇が魏の官位を与えて貰えたのは、ほんの少しの間だけなのです。それを余韻として、今回は終わりたいと思います。
参考文献:魏書武帝紀 文帝紀 夏侯淵伝 夏候惇伝
関連記事:夏侯惇と夏侯淵ってどんな逸話があるの?
関連記事:夏侯惇の空白の10年を深読み
関連記事:夏侯惇の外見ってどんなイメージ?理想の夏侯惇像をちょっと描いてみる