夏侯惇の空白の10年を深読み


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夏侯惇

 

三国志は大勢のファン層を持つ名著なので、おのずとその内容はドラマ的になり、次第に通説(つうせつ)が形成されていきました。kawausoは関羽(かんう)は群雄だったという説や張飛(ちょうひ)の空白の8年間から、実は張飛も曹操(そうそう)に仕えていたのではないか等、あえて通説を破壊する天邪鬼な事を書いてきましたが、曹操の親密な友人夏侯惇(かこうとん)にも、空白の10年がある事を発見しました。

 

今回は、夏侯惇の空白の10年を深読みします。

 

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西暦207年から217年まで記録がない夏侯惇

目玉を食べる夏侯惇

 

曹操の挙兵から、死ぬまで曹操にべったりのイメージがある夏侯惇に空白の10年間があるとは、俄かに信じがたいですが、正史三国志夏侯惇伝を読んでみると、建安十二年(207年)11月、曹操が夏侯惇の前後の功績を褒賞して封邑千八百戸を増し、あわせて二千五百戸になった。という記述から一気に10年飛び、建安二十二年(217)3月に孫権征伐に従い帰還する際、夏侯惇に二十六軍を都督(ととく)させ居巣(きょそう)に留めた。楽団と歌姫を下賜(かし)された。となっています。

赤鎧を身に着けた曹操

 

しかし、10年と言えど、この10年間は魏にとって非常に重要な時期で、この間に烏桓(うかん)討伐、劉表征伐、赤壁の敗戦、潼関渭水(どうかんいすい)の戦い、張魯(ちょうろ)征伐、第二次合肥の戦い、曹操魏王就任と非常に重要なイベントが立て続けに起きています。

 

曹操と夏侯惇

 

曹操にとって重要な時期に、相棒(あいぼう)夏侯惇の動向がまるで文書に残っていないというのは、非常に不思議な感じがしませんか?


河南尹として独断専行を許された夏侯惇

洛陽城

 

どうして207年から217年まで夏侯惇の動向が不明なのか?

 

それは夏侯惇が裁いていた役職に関係していると思われます。夏侯惇は西暦199年頃に河南尹(かなんいん)に転じ、鄴が陥落した204年には伏波將軍(ふくはしょうぐん)をプラスされました。河南尹とは洛陽長官で、つまりは首都行政のトップであり、前漢の功臣の蕭何(しょうか)のように、兵力や食料の輸送のような地味で重要な仕事をこなしていたようです。

 

もうひとつ夏侯惇には特徴的な権限が与えられています。それが不拘科制(ふこうかせい)、つまり法律に囚われず、己の判断を先行して宜しいというフリーハンドです。法家のように法律を厳守させた曹操ですが、夏侯惇に対してだけは、法律よりもお前の判断を信じると最高の信任を示したのでしょう。夏侯惇は曹操の期待に応え、10年間兵站(へいたん)という地味で重要な仕事を淡々とこなしました。

同年小録(書物・書類)

 

だからこそ、西暦217年の3月には居巣で揚州方面二十六軍の都督諸軍事になっています。史書に記録がなくても、夏侯惇には十分な手柄があったのです。

 

曹操と夏侯惇

 

魏王になった曹操ですが、夏侯惇に対する親愛の情は増々増大します。最晩年には、自分と同じ車に同乗を許すなど、曹操が劉備と蜜月だった頃のような扱いになり、同族の曹仁にも許されなかった曹操の寝室に入る事を許可されました。

 

司馬朗と曹操

 

大体、権力者は晩年になる程身内を贔屓(ひいき)し、子孫を脅かす重臣には冷淡になったり猜疑心(さいぎしん)を持ったりしますが、曹操は逆で晩年になるほど夏侯惇への信愛が増しています。

 

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不臣の礼を返上した夏侯惇の警戒心

曹操と夏侯惇

 

曹操が魏王になってより、その支配下の臣は同時に魏の官位を持つようになります。しかし、夏侯惇にだけは曹操は、「君については友人であり魏の臣であるというせせこましい型枠に()めたくない」として共に漢の臣としては同僚という立場を貫いていました。

 

これも、曹操の厚遇ですが、晩年の夏侯惇は、堅く魏の臣となりたいと上奏して前将軍(ぜんしょうぐん)にされたと魏書にはあります。ですが、折角の厚遇を夏侯惇が辞退したのは、何も彼が謙虚だったからというだけの理由ではなさそうです。実は、同じく曹操の厚遇を辞退した田疇(でんちゅう)の態度に影響を受けた可能性を感じます。


田疇を説得した夏侯惇

承諾する曹操

 

正史三国志田疇伝には、荊州征伐後に曹操が烏桓(うかん)討伐に田疇の功績が大きい事に気づき、一度田疇の封候辞退を認めた事を後悔して、田疇と親しかった夏侯惇に曹操の名前を出さずに、「あくまでもお前の意志として、侯を受ける事を勧めてくれ」と田疇の元に送り出しています。

 

そこで、夏侯惇は言われた通りに田疇を説得しますが、田疇がにべもなく拒否したので夏侯惇が「君、幾らなんでも、主君のご厚意を全く無視するわけにはいきませんぞ」とダメを押します。

 

すると田疇は涙を流して

「元来、私の事を理解しているあなたまで、そのような事を言うのですか、これでは私は首を()き切って捧げたいと存じます」と言ったので、夏侯惇はそれ以上、何も言えず曹操に報告、曹操もついに封侯を断念しました。

 

夏侯惇は田疇を他山の石とした

夏侯惇

 

田疇は夏侯惇の立場に似ていて烏桓討伐では、曹操に協力しつつも漢室に義理を立てて封侯を拒否しています。元々、劉虞(りゅうぐ)の領地を荒らしていた烏桓を討伐したいと思っていたので曹操には協力しましたが、曹操の配下としては一定の距離を置きました。

 

それゆえに、不拘科制を許された夏侯惇の立場にシンパシーがあるのですが、夏侯惇は田疇の頑なさに不安を感じたのでしょう。それで、自分は田疇とは違うという意味で、不臣の礼を返上したのではないでしょうか。不拘科制を元にフリーハンドを楽しんでいた夏侯惇も、魏の官位を受ける事で完全に曹操の支配下に入ったのです。

 

三国志ライターkwausoの独り言

kawauso 三国志

 

今回は、夏侯惇の失われた10年を深読みしてみました。曹操に対する夏侯惇は、劉備における関羽の立ち位置に近いです。両者とも、挙兵当初から付き従い、すぐに司馬で別軍を任され、関羽は下邳(かひ)や荊州南郡を任され夏侯惇も、河南尹として洛陽と言う曹操軍の心臓部を任されています。しかし、最後は群雄になってしまう関羽と違い、夏侯惇は大人しく魏の臣になり曹魏の官僚機構に組み込まれていきました。

 

参考文献:正史三国志

 

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