馬謖は、馬良の弟で劉備が荊州にいた頃に劉備軍に入りました。その後、荊州従事として劉備の入蜀に付き従うと、持ち前の才能で各地の令と太守を歴任。
特に軍計を好んで論じたようで、才人が好きな諸葛亮に気に入られ、大事な局面では使うなと劉備が遺言したにもかかわらず、第一次北伐の要である要衝、街亭の守備を任されて、山頂に陣取り水を断たれてボロ負けしました。今回は、馬謖の生涯について解説してみましょう。
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初平元年(西暦190年)荊州襄陽郡宜都県で誕生
馬謖は字を幼常と言い、初平元年(西暦190年)荊州襄陽郡宜都県で誕生しました。生家の馬氏は襄陽の名家で男兄弟で5名いたとされ、いずれも有能な人物だったようですが、4男の馬良と5男の馬謖以外の3名の経歴は不明です。
そんなこんななので、馬謖の少年期の事はほとんど不明で、ようやく名前が出てくるのは22歳の頃、荊州従事として劉備の入蜀に従った時でした。その後、馬謖は緜竹令・成都令・越雟太守とトントン拍子に出世します。
劉備は馬謖を危ぶんでいた
馬謖は博学多才で突出した才能があり、特に軍計を論じる事を好んだので、諸葛亮に早くから目を掛けられていました。
ただし、劉備は兵卒からのたたき上げなので、経験を伴わない馬謖の軍計が机上の空論だと悟っており、臨終間際、「馬謖は口先程の才能はないので、大事な局面では使うな」と孔明に遺言していましたが、孔明は従わず増々馬謖を重用、参軍として傍らに置いて昼から夜まで毎日議論していたようです。
こんな調子ですから諸葛亮が馬謖を重んじるのは、まあ、自然の成り行きでした。
南征で適切に献策し評価を上げる
建興2年(224年)春、建寧郡の豪族雍闓が、劉備の死去の空白を突いて蜂起、西南夷の有力者孟獲を誘い謀反を起こしました。この時、馬謖は孫子の「城を攻めるは下策、心を攻めるが上策」を引き、徹底した破壊ではなく直接謀反に加担した者だけを処罰し、後は赦して、南中の支配は、その土地の人間を使う等と献策しました。
諸葛亮は馬謖の献策のラインに沿い、孟獲のような有能な敵将は罪を赦し、そのまま統治を任すなどし、こじらすと1世紀以上はかかる異民族問題をある程度処理する事が出来ました。諸葛亮も、この一件で馬謖は決して口先だけの男ではないと確信したようで、それが北伐での馬謖の登用に繋がります。
街亭の山頂に陣を敷き張郃に敗北
建興6年(228年)諸葛亮は出師の表を劉禅に上奏し、魏を打倒すべく兵を祁山に進ませます。この時、蜀には宿老として魏延と呉懿がいて、識者は両者に命じ先鋒を務めさせるのが妥当と考えていましたが、諸葛亮は、予想に反して馬謖を先鋒に指名し、副官に王平を置いて監督させ大軍を与えました。
孔明は、馬謖に戦略上の要衝である街亭お守備を命じ、同時に街道を抑えるように命じたのですが、馬謖は孔明の言いつけを破り山頂に陣を敷く事を決断します。副官の王平は、山頂に水源はなく麓を包囲されてしまえば、全てが終わりになると猛反対しますが、馬謖は聞き容れませんでした。
果たして、街亭を抑えるべくやってきた魏軍の張郃は馬謖を「兵法を知らぬヤツ」と嘲笑い、街亭の麓を包囲して水を断ち困窮した馬謖軍は惨敗します。
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