豊臣秀吉によるバテレン追放令の内容とは?戦国時代のキリスト教事情

2020年7月25日


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バテレン追放令の内容とは?(1P目)

 



監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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1596年のサン=フェリペ号事件・秀吉が直接迫害したきっかけ

 

1587年のバテレン追放令は、初めてキリスト教に対する禁令でしたが、キリスト教そのものへの禁令でもなく、また貿易を重視していたこともあり、あまり強力なものではありませんでした。宣教師たちも表立っての布教はしないものの、各地に潜伏しながら引き続きキリスト教の教えを広めようとします。

 

ところが、9年後の1596(文禄5)年に起きたある事件をきっかけに秀吉の態度が強化します。それはサン=フェリペ号事件。この年フィリピン・マニラを出航したスペインのサン=フェリペ号は、太平洋横断を行おうとしていました。ところが東シナ海で台風の被害にもまわれ、かろうじて日本に流れ着きます。土佐沖に漂着した船を見た大名の長宗我部元親は、高知の長浜に船員たちを止めおきます。

 

その際に所持品や荷物を調べているうちに、スペインは海賊でこれまで南米のペルー、中米のメキシコ、そしてフィリピンを武力で制圧したことを知り、日本でもそれを行うために来たといった内容を秀吉に送ります。スペインと日本の国力の違いを語ったとの記録もあり、それを聞いた秀吉は直後に禁教令を発布。宣教師と修道士、日本人信徒20人の合計26人を処刑してしまいます。これは日本二十六聖人とされるもの。秀吉がキリスト教徒に対して唯一迫害した事件として記録に残ります。

 

秀吉亡き後のキリスト教① 家康が出した本格的なキリスト教禁止令

 

サン=フェリペ号事件により、秀吉がキリスト教徒に直接迫害を開始しましたが、この2年後に秀吉が死去。時代が大きく動き、関ヶ原の合戦を経て家康が天下を取り、江戸幕府が開府します。関ヶ原の合戦が起きる半年前、1600(慶長5)年3月に、イングランドのリーフデ号が日本に漂着。この船には後に三浦按針(みうらあんじん)と呼ばれる、ウイリアムアダムスが乗っていました。

 

彼はプロテスタントだったこともあり、当時日本にいたカトリックのイエスズス会からの反発はありましたが、家康は彼らを引見。プロテスタントのことを知った家康は彼を重用、布教を黙認しています。しかし禁教令自身は解除していません。とはいえ一時は再びキリスト教の宣教師が来日し、九州を中心に教会が立てられて発展しています。

 

ところが1608年に日本人が60名以上殺害された「マードレ・デ・デウス号事件」それに続いて、家康の側近・本多正純の家臣でキリシタンの岡本大八が起こした収賄事件などが相次ぎ、ついに家康はキリスト教に対して禁止令を出しました。それは1612(慶長17)年4月のこと。これは秀吉時代よりもより厳しい内容となっています。キリシタン大名や旗本などキリスト教徒だったの領主の改易や処刑が始まりました。このため熱狂的な元キリシタン大名高山右近は、フィリピン・ルソン島に渡ったほどです。

 

秀吉亡き後のキリスト教② 家光時代に起こった島原の乱と鎖国

 

家康による慶長の禁教令以降、本格的なキリスト教への迫害が始まりました。二代将軍の秀忠も家康に追随し、1619(元和5)年にキリシタン禁令の高札設置。1622(元和8)年の大殉教では、キリスト教徒が55名火刑や斬首されるなどの事件が相次ぎ、キリスト教徒に対して棄教を迫るようになりました。

 

1629(寛永6)年には有名な踏絵が登場。しかし度重なる迫害でも、ひそかに信仰を守る隠れキリシタンも登場します。そして1637(寛永14)年には島原の乱が勃発。元々キリシタン大名有馬氏の所領だった地で、当時の領主だった松倉勝家(まつくらかついえ)は、石高を過大に見積もったためにキリシタン弾圧と過重な労役と年貢を課していました。

 

天草四郎

 

それに爆発した民衆は、天草四郎(あまくさしろう)を頂点に、残されたキリスト教徒が集結。島原半島の原城に立てこもります。幕府軍は4カ月にわたってこれを攻撃し鎮圧。乱の主要因を起こしたとされる勝家は幕府により斬首刑に処せられました。これを持って、幕末の開国まで表だって日本国内にキリスト教徒は居なくなりました。

 

戦国時代ライターSoyokazeの独り言

soyokaze(ライター)

 

キリスト教への迫害が強くなったのは家康以降で、秀吉の頃はまだ信仰の自由については認めていたのがわかります。しかし唯一神信仰を持つキリスト教は、時の権力者にとって厄介な存在。かつての古代ローマ帝国が内部から崩壊した理由もキリスト教と言われます。そんなキリスト教も幕末の開国から復帰、明治維新後もしばらく日本人は禁教でした。やがて認められ、教会が続々とできて現代に至ります。ちなみに信仰の自由は、戦後が初めてではなく、明治の大日本帝国憲法下でも保障されていました。

 

参考文献

「豊前覚書」

「高橋紹運記」

ルイス・フロイス「日本史」

太田淑子 「日本史小百科 キリシタン」東京堂出版

安野眞幸「バテレン追放令 16世紀の日欧対決」日本エディタースクール出版部

高瀬弘一郎「キリシタンの世紀 -ザビエル渡日から「鎖国」まで-」岩波人文書セレクション

 

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麒麟がくる

 

 

 

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Soyokaze

ライター自己紹介: 旧石器から現代史、日本、中国、西洋とどの歴史にも興味があります。 小学生のころから歴史に興味があり、歴史上の偉人伝を呼んだり、 NHKの大河ドラマを見たりして歴史に興味を持ちます。 日本のあらゆる歴史に興味を持ち、旧石器や縄文・神話の時代から戦後の日本までどの時代も対応可能。 また中国の通史を一通り読み西洋や東南アジア、南米に至るまで世界の歴史に興味があります。 最近は、行く機会の多いもののまだあまり知られていない東南アジア諸国の歴史にはまっています。 好きな歴史人物: 蘇我入鹿、明智光秀、石田三成、柳沢吉保、田沼意次(一般的に悪役になっている人たち)、溥儀、陳国峻(ベトナムの将軍)、タークシン(タイの大王) 何か一言: 勝者が歴史を書くので、歴史上悪役とされた敗者・人物は本当は悪者では無いと言ったところに興味を持っています。

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