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この記事の目次
賈詡の大人の対応(1)
もちろんこの政治的謀略に気付いた人もいます。それは賈詡です。彼は董卓・李傕・張繍など多くの主君に仕えた人物でした。
賈詡は策略に長けた人物であり、また曹操の挙兵当時からの部下でもありません。つまり、外様です。賈詡は危険から身を守るために普段から他人と私的な交際はせずにインドアな生活を送っていました。
ところが、そんな時に曹丕が使者を寄越して「どうすれば曹植と後継者争いに勝てますか?」と尋ねてきます。危ない話を持って来られたので、賈詡はどっちの味方もしたくありません。そこで「曹丕様は謙虚な行いを実践されてください」と子供でも分かる返答をします。誰の味方もしない。まさに大人の対応でした。
賈詡の大人の対応(2)
しかし賈詡はまたもや捕まります。今度は曹操に「ここだけの話にしよう」と呼び出されます。
曹操は早速、曹丕と曹植の件について尋ねますが賈詡は何もしゃべりません。曹操は「君と話しているのにどうして何も答えてくれないんだ?」と尋ねました。
賈詡は「ちょうど考え事をしており、答えなかっただけです」とコメント。曹操は何を考えていたのか尋ねました。
すると賈詡は「袁紹と劉表のことを考えていたのです」と答えます。袁紹と劉表は嫡子を後継ぎにしなかったことから、死後にお家騒動が起きて滅びました。
賈詡は、はっきりと「後継者は曹丕です」と言いませんが、曹操に自分の気持ちを伝えました。もちろんこれは、曹丕に味方するのが目的ではなく、あくまで自分の身を守るためです。
崔琰の対応
賈詡の他にも曹操・曹丕の謀略に気付いていた人はいたようです。崔琰でした。彼も曹操挙兵当時からのメンバーではなく、元・袁紹配下です。それどころか崔琰の姪は曹植の妻だったので、彼は政治的に非常に不利な立場でした。下手なことを言えば絶対に一族抹殺は免れません。
そこで崔琰は自分の命をかけて曹丕を後継者にすることを推薦。曹操の機嫌をとりました。中国で大事にされるのは祖先祭祀です。血統が絶えて祖先祭祀が出来なくなるのは中国人にとって1番無念なことでした。崔琰は曹植との私的な交流よりも一族の存続を優先したのでした。
曹植に優しかった曹丕!?
『三国志演義』の影響のためか、曹丕は曹植に対して冷酷という印象があります。しかし史料を読むと曹丕は曹植を世話していた形跡があったのでした。
確かに曹丕は即位当時、曹植を殺そうとして、母の卞太后に止められます。だが、それは曹植が酒に酔って使者に対して傲慢な振る舞いをしたのが原因。曹丕が下した判断は問題ありません。曹植はこの件により臨菑侯から甄城侯になりました。
曹植はその後、様々なところを転々としたことから悲劇の詩人と言われます。ところが、曹植が与えられた待遇について調べると不審な点があるのでした。
黄初2年(221年):甄城侯(領地:2000戸?)
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同3年(222年):甄城王(領地:2500戸)
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同4年(223年):雍丘王(領地:3000戸)
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太和元年(227年):浚儀王(領地:3000戸)
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太和2年(228年):雍丘王(領地:3000戸)
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太和3年(229年):東阿王(領地:3000戸)
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太和6年(233年):陳王(領地:3500戸)
上記の図のように曹植は亡くなるまで「侯」から「王」に昇格したり、領地も増やしてもらっています。一般に知られているような悪い待遇にあっていたわけではありません。
つまり曹丕は冷酷な兄ではなく、亡くなるまでしっかりと弟の面倒を見続けた優しい兄だったのです。曹丕の死後、曹植の面倒をみることは曹丕の息子の曹叡にも引き継がれます。曹叡も曹植が亡くなるまで、きっちりと役目を果たしたのでした。
三国志ライター 晃の独り言
先日、久しぶりにYOUTUBEで「趙雲が出世出来たのは劉備が亡くなってから?」を見てみると、コメント欄が大量にあふれていました。
半年以上見ていなかったので随分と様々な意見がありました。しかも視聴者同士で意見を交換したりもしているのが面白い。私が望んでいるような場ですね。皆さんが楽しんで意見交換が出来るように、もっと面白い記事を書いていきます。
※参考文献
・津田資久「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」(『東洋学報』84-4 2003年)
・津田資久「曹魏至親諸王攷-『魏志』陳思王植伝の再検討を中心としてー」(『史朋』38 2005年)
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