曹操の死去した場所については、色々な説があって面白い正史三国志の公式見解では、洛陽で死んだ事になっているけど、諸葛亮が書いた正議では、漢中争奪戦から帰還する途中に毒矢に当たり死んだとされている。
ただ、諸葛亮の正議は、以前記事でも指摘したように、項羽が煮殺されたと書いていたりして、事実よりも悪党の末路はこうだぞ!という強力なメッセージ性があるので嘘かも知れない。
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そうなの?諸葛亮はいい加減に歴史を覚えていた
諸葛孔明(しょかつこうめい)と言えば、謹厳実直(きんげんじっちょく)の権化であり、自他ともに厳しい仕事人間というイメージが先行しているのではないかと思います。 ...
でも、面白いのが曹操オタクだった陸遜の孫、陸機の弔魏武帝文で、この中で陸機は、曹操は漢中を攻めている途中で病気になり、長安を越えた所で重病、洛陽についた頃には息絶えたとある。
確かに曹操は洛陽で死んではいるが、長安で重病になった人が洛陽まで持つだろうか?
長安と洛陽は距離にして400キロくらいあった筈、、当時の馬車の速度で、おいそれと到着するとは思えない。
すると、正議の諸葛亮の言葉も調子のよいホラとも言えなくなる。
曹操が洛陽で死んだ時、太子の曹丕は鄴にいて、すごいバタバタしているのが文帝紀からは見えるけど、始皇帝のように死を誤魔化していて、洛陽に着いたのは曹操の骸で、本当は長安あたりで死んでいたのでは?
だから長安を守備していた曹彰が、のこのこやって来て賈逵に王の印綬はどこだ?みたいに詰め寄ったのでは?
みたいに色々疑えてしまう・・
みんなはどう思います?
【北伐の真実に迫る】