沮授と言うと「官渡の戦いで袁紹に策を聞き入れてもらえなかった」ことから、良く「主君に」恵まれなかった人物、というイメージを抱かれていると思います。しかし沮授は本当に主に恵まれなかったのでしょうか?
今回は沮授と袁家の家臣団たちについて、色々と考察していきたいと思います。
この記事の目次
やたら策を拒否されるイメージ
さて官渡の戦いのイメージが強い沮授ですが、何もここが始まりではありません。
199年に献帝を迎え入れようと進言するも郭図らに反対されて退けられ、曹操に対する戦略でも献策した持久戦ではなく郭図や審配らの短期決戦を受け入れられ……しかも、この時に郭図が沮授の権限が強すぎると進言したので、監軍という軍の総司令官にあたる地位の権限を沮授、淳于瓊、郭図で分割されてしまうことになってしまいました。ここまでを見ていると、踏んだり蹴ったりというか、何とも報われない人物のように見えてしまうかもしれません。
沮授の凄さ
ここで少し沮授の凄さ、先見の明があったことをちょっと説明しておきましょう。曹操に荀彧らが「献帝を迎えるように」と進言したことは有名ですが、それよりも前に袁紹に献帝を迎えるように進言したのが沮授なのです。
状況などもあるので一概には言えませんが、沮授もまた先見の明を持っていた人物と言っても良いでしょう……まあ、袁紹はこの進言を受け入れませんでしたが。
袁紹はどうして受け入れなかったの?
ところで袁紹はどうして沮授の献帝を迎える案を受け入れなかったのでしょうか?
これは筆者の個人的な考察なのですが、袁紹は「自ら皇帝になる」というプランを描いていたのでは?と思います。
光武帝という先例、河北の平定から天下統一、強気の領地拡大……ここから自らが皇帝になることを考えているとなると、献帝を迎えいれるというのは袁紹のプランとしては受け入れることはできなかったのではないかと思うのです。そう考えると沮授は「主に恵まれなかった」のではなく「主を間違えた」だったのではないか……と言えるのではないでしょうか。
沮授は冷遇されていたのか?
ここで少し気になるのが「沮授は冷遇されていたのか」ということ。沮授は袁紹の元にやってきてから、その才能を買われて軍の総司令官のような立場を与えられます。むしろ異例の好待遇、と考えても良いでしょう。
また郭図に讒言されて沮授の軍権を分割した……ということは、それまで郭図らよりも高い位置にあったということですし、むしろ沮授は袁紹の所でかなり厚遇されていたとも言えると思います。
沮授、淳于瓊、郭図で分割されてしまうことになったと言うのは沮授の立場が下げられたというよりは、三人とも地位が高くなったともとらえられますね。
【次のページに続きます】