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張春華とはどんな人?実は晩年まで司馬懿とラブラブだった?


 

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張春華

 

張春華(ちょうしゅんか)司馬懿(しばい)の正室で、司馬師(しばし)司馬昭(しばしょう)司馬榦(しばかん)南陽公主(なんようこうしゅ)の生母です。三国志においての張春華は非常に(つつし)み深く頭がキレるものの、必要とあらば家庭の秘密を知った奴婢(ぬひ)を口封じに殺してしまうなど、冷酷な一面を持つ女性として描写されます。

 

そして、司馬懿もそんな彼女に恐れを抱き、柏夫人(はくふじん)という愛妾(あいしょう)をつくって彼女への愛情も()めたような書かれ方をします。でも、それってホントなんでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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本当に12歳で人を殺せたのか?

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

張春華は西暦189年、河内郡平皋県(かないぐんへいこうけん)粟邑県令(りつゆうけんれい)張汪(ちょうおう)山氏(さんし)の娘として誕生しました。幼少の頃から徳行に秀でていて、知識は人並み以上だったと言われています。

 

そんな彼女の若い頃の逸話は恐ろしいもので以下のような話です。

 

司馬懿は、西暦201年頃に曹操に仕官してみないかと誘われましたが、中風(ちゅうぶ)で体の自由がきかないのでと理由をつけて断りました。後日、司馬懿は愛読している本にカビが生えたので日光殺菌しようと庭で干していると、急に天候が変わり土砂降りになります。慌てた司馬懿は、中風(ちゅうぶ)である設定も忘れ、庭に飛び出し干していた本を取り込んでしまったのです。

仮病を使う若き司馬懿に嫌がらせをする曹操

 

しかし、その様子を炊事係(すいじがかり)の奴婢が目撃しており、張春華は奴婢がこの話を外で漏らして、曹操の耳に入り司馬氏が族滅される事を恐れ奴婢を殺し、自ら炊事をしました。それを知った司馬懿は、タダモノではないと考えて張春華を重んじるようになったそうです。

内容に納得がいかないkawauso様

 

恐ろしい話ではありますが、西暦189年生まれとされる張春華はこの時12歳です。12歳の少女がとっさに決断できるような事でしょうか?

 

どうも、後に晋帝国の(いしずえ)になった司馬懿の正室という事でタダモノじゃないエピソードを付け足したような気がするんですが、、

 

張春華と司馬懿は仮面夫婦だったの?

仲の悪かった張春華と司馬懿

 

その後、曹操に仕えた司馬懿は順調に昇進を重ね、それに従い柏夫人という愛妾を寵愛(ちょうあい)するようになり、張春華はまれにしか夫に会わなくなったとされます。

 

しかし、或る時、司馬懿が病に倒れたと聞くと張春華は見舞いにやってきます。それを聞いた司馬懿は、どういうわけか突然起こり出し、「小憎らしい老いぼれババァ!今頃やってきてわしを(わずら)わせるのか?」と言いました。

 

司馬懿

 

張春華は、司馬懿の言い草に怒りと恥ずかしさで一杯になり「私に御用がないなら死にましょう」と食事を絶ち餓死しようとします。張春華の息子、司馬師、司馬昭、司馬榦も母親に倣い食事を絶ったので、司馬懿は大弱りし、張春華に謝ったので張春華は断食を止めました。

 

この時、司馬懿は「ババァの体を心配したのではない!息子達が心配だったのだ」と情愛の欠片(かけら)もないコメントを残しています。まるで愛情を感じられない司馬懿と張春華の関係、二人は仮面夫婦だったのでしょうか?

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

まだ漢王朝で消耗しているの

 

司馬懿と張春華は晩年までラブっていた

悪い顔をしている張春華

 

しかし、二人の間に生まれた子供を見ていると、意外な事実が見えてきました。

 

張春華と司馬懿の間に生まれた司馬榦は、司馬懿の7子で西暦232年の生まれなのです。その頃、司馬懿は53歳、張春華は43歳であり張春華は当時としてはかなり高齢での出産でした。

 

調べてみると、この頃、すでに司馬懿は伏夫人(ふくふじん)張夫人(ちょうふじん)の間に司馬亮(しばりょう)司馬駿(しばしゅん)司馬伷(しばちゅう)という男児を得ていますので、別にババァ張春華の寝室に行く必要はないのですが、それでも足が向き黄昏流星群(たそがれりゅうせいぐん)ばりにウヒョったという事は、決して張春華が嫌いだったわけではないという事でしょう。

 

また、司馬懿が寵愛したという柏夫人は司馬懿晩年の愛妾と言われ、司馬倫(しばりん)を産んでいるのですが、この子は司馬懿の第9子で末っ子、生年は不明ですが西暦250年に安楽亭侯に封じられている事から、それ以前には誕生しています。

 

ですが、司馬榦の232年よりは後という事ですから、やはり司馬懿晩年の子という事実は動かないでしょう。また司馬懿は西暦245年冬に、輿に乗ったまま昇殿を許されたという記述が晋書に出て来ます。

 

すでに司馬懿は、66歳になっていて足腰が弱っていたと考えられ、その後の子作りは難しそうなので、司馬倫は232年から245年の間に生まれたと考えて大きな間違いはないと思います。

 

司馬懿の発言は照れ隠しではないか?

異議ありと叫ぶ司馬懿

 

司馬懿と張春華は、わりと晩年までラブラブだった可能性が高い。それを考えると、司馬懿の老いぼれババァ発言も意味合いが変わってきます。つまり、司馬懿が病に伏した時、張春華は50歳近い当時としては老婆であり、もしかすると体調が悪いのを推して見舞いに来たのかも知れません。

 

そこで司馬懿の小憎らしい婆ァ発言ですが、これは原文が老物可憎(ろうぶつにくむべし) 何煩出也(なにをわずらわせんとくるや?)となっていて、小憎(こにく)らしいババァめ!俺に面倒を掛けにきたのかとも取れます。

司馬懿

 

司馬懿としては、「ババァに見舞われても心配事が増えるだけだ!大人しく家で寝てろ」という、いわば毒蝮三太夫(どくまむしさんだゆう)的な照れ隠しのつもりで言ったのが、張春華は全て真に受けて絶食モードに入り、司馬師や司馬昭のような息子達も、「あんな言い方は無いでしょう」と母の肩を持って絶食してしまい、慌てて謝罪したというのが真相ではないでしょうか?

司馬懿

 

しかし、古女房に平身低頭(へいしんていとう)したと世間の噂話になるのも(しゃく)なので、「俺はババァが惜しいんじゃない!将来ある息子の身を案じたのだ」と虚勢(きょせい)を張ったのだとも考えられます。

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kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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