曹操が西暦212年頃に国淵を魏郡太守にする前後に、曹操の政治を批判する投書があった。
しかし、この投書、単純に曹操の悪口を書いたものではなく後漢の科学者張衡の二京賦という長い叙事詩を使い風雅に曹操をディスった。
二京賦というのは、ちょっと見ると洛陽と長安の風情を謳っただけに見えるが、見る人が見ると政治批判の内容に見えるという高尚なヤツだった。
曹操は自分も詩を読むから、それが政治批判だと分ったんだろう。
とても悔しく思い、どうあっても投書したヤツを知りたいと願った。
そこで国淵は、投書の事実を完全に伏せさせたうえで、功曹という許の人事係に命じて
向学心がありそうな3人の若者を推挙させ呼び寄せ、領内で二京賦が読めそうな高名な師匠を探して教わりなさいと命じた。
3人は領内を探し回り、二京賦が分かる学者を探し出した。
国淵は役人に命じて、学者に文字を書かせて持ってくると投書の文字と一致したので捕えて尋問すると事実関係が判明したそうだ。
その後国淵は九卿の太僕に昇進するが、面白いのは、この学者が誰か不明である事。どんな罪に処されたか不明な点だ。
曹操は本当に処罰したのだろうか?