魏の鄧艾(とうがい)に降伏し、洛陽に連行された劉禅が司馬昭に歓待を受け
「蜀を思い出しますか?」と問われ「いえ、ここは楽しく、思い出す事はありません」と答えた話はとても有名だ。
それが本心かどうかはさておき、三国志には、この真逆の話もある。
魏の王朗(おうろう)から降伏を呼びかける手紙が許靖に届いていて、そこには、以下のような一文があった。
(文帝は)足下(そこもと)や諸葛亮らの士人で同民族の人々が、このまま羌族など異民族の中に埋没し、
永久に中華より隔絶されて中国に参朝する機会もなく、故郷の庭に生える梓や桑の眺めを恋い慕っている様を
憐れんでおられます。
益州のようなド田舎で、羌族のような異民族に埋没して故郷を思いながら朽ちていく、それは悲しい事だと、陛下は憐れんでいるので早く降伏しなさいという意味だ。
この手紙に、荊州閥の人々がどの程度動揺したかは分からない。
でも、それから40年経過すると、司馬昭が逆に「蜀は懐かしくないですか?」と聞くんだから、
荊州閥の人々の子孫も、多くが益州に同化したんだろう、住めば都という事だ。