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審配、輝く(ラストチャンス)
ここまで見るといいところないじゃないか、と思われそうな審配、ご安心ください。最期は輝くと言わんばかりに曹操軍が攻め込んできた際に、一緒に配属された蘇由が裏切ろうとするもそれを看破。
次に曹操に内応したのは馮礼、門を開いて曹操軍を引き入れようとしたところで審配のしかけた落石によって壊滅。既に二ヶ月、曹操軍は水責めをするも審配ここから更に踏ん張って二ヶ月、これには曹仁もびっくり(おそらく)。
しかしここで救出に戻ってきてしまった袁尚が曹操軍に敗走させられたことで城内の士気が低下。最後は審配自身の甥が内応、審配は城を落とすことになってしまいました。捕まった審配に曹操は興味を抱いて勧誘しようとしますが、審配は突っぱねます。
「我が君は北に在り」
審配は最期に北を向き、処刑されるのでした。
最期が明暗を分けた審配
さてこんな審配、皆さんはどう評価しますか?
少なくとも人格面においてはかなり問題のあった人物である審配、しかし最期の最期での防衛線が、彼の評価を、郭図や逢紀と一線を別けさせたと言っても過言ではないでしょう。裴松之先生も審配ファンだったのか、記録に対して主観とは言え、かなり反論をしています。
このためか三国志演義では審配はかなり忠臣としての面を描かれることとなりました。
最期の印象は、重要
不思議なものでやらかしたのも大きいのに、最期に大きく見返せば優秀だったような気がしてしまう、一気に印象が変わる、という良い例となっている武将かもしれません。
逆に言えば最期が良くなければ延々とその一面を繰り返されるということもある訳で……個人的に嫌いではないけど、そこまでのやらかしも大きいよなーと思ってしまう武将ですね、審配は。良い面だけでなく悪い面もきちんと思い出そう、逆もしかり。そう思いを新たにしてくれる武将でした。
三国志ライター センのひとりごと
今回は中々面白い人生を送った武将、審配の紹介をさせて頂きました。審配は最期の奮戦がなければ郭図、逢紀らとそこまで評価は変わらなかったでしょう。そして同時に、最期の奮戦は間違いなく忠臣のそれでもあります。何だかんだ最期にどうしてここまで覚醒したのか、そういう意味で気になる武将ですね。
参考文献:後漢書袁紹伝
魏書袁紹伝 武帝紀 荀彧伝
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