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秦朗の末路
ですが秦朗は決して無能ではありません。異民族との戦いではこれを良く破り戦功を上げ、諸葛亮の最後の北伐の際には歩兵・騎兵20000人を率いて司馬懿の指揮下に入りよく守ったとされています。
そして曹叡が病の床に就いた際には曹爽らと共に幼い曹芳を補佐することになりました……が。
そこに現れるのが劉放と孫資。彼らは曹叡に秦朗への讒言をし、病で筆さえ持てない曹叡の手を掴んで無理やり詔書を書かせ、秦朗は罷免される事になりました。この際に曹爽は中枢に残れたものの、役職を放免された秦朗たちは泣きながら自宅に戻り、それから歴史書から秦朗の名は消えることとなります。
秦朗は佞臣か?
ここで筆者が考えたいのが、果たして秦朗はそこまで言われるほど佞臣か?ということ。
個人的には異民族との戦いで戦功を上げたりする辺り、呂布の部下であった秦宜禄の子として十分、むしろそちらの方面に才能があったのでは?と思います。
もしかしたら歴史書に残されていない悪行があったのかもしれませんが、それを言うと全ての人物たちの評価を覆させないといけなくなるので残された記録だけで判断すると、進んで賄賂を得たというよりは持ってこられたから受け取ったという感じで、イメージとしては「育ちが良くて世間にあまり染まっていないお坊ちゃん」という人物像が浮かび上がるのですよね。
そういう意味ではただ戦場に出て武功を立てる方が向いている人物であり、むしろ政治方面は向いていなかった、そしてそれは佞臣とまで言われるほどではない……と思うのです。
秦朗の失脚について
また最後は失脚してしまう秦朗ですが、これは秦朗の素行が悪いというよりは秦朗たちが気に入らない劉放らに陥れられたと言って良いでしょう。
またこの際に曹家、夏侯家の面々が失脚させられ、司馬懿が台頭してしまう(しかも残ったのが曹爽)となることで皇室の力が削がれてしまっているのはむしろ劉放らのミスと言えるでしょう。
この点から見ても秦朗自身に問題があったというよりは、権力争いに向いてなくて負けてしまった、という方がしっくりくると思います。なので筆者的には秦朗にはそこまで問題があった訳ではないが、権力争いには興味のない人物であった、という評価をしたいと思います。
しかしてその最期
因みに秦朗は「泣いてお家に帰りました」と書かれてからは歴史書に出てきません。しかし晋の時代に子が家督を継いだとあるので、その一族は残されていたと見るべきでしょう。
そして皆さんご存知でしょうか、失脚した秦朗と違って中枢に残された曹爽……そう、その後やらかして三族皆殺しとなりました。これを見ると秦朗の失脚は秦朗自身が中枢から外されただけで、一族も残されているだけ良かったとさえ言えるのでは?というか残っていたら曹爽たちと同じ末路だったのでは?
そう考えると人生万事塞翁が馬、当時は泣きながら家に帰った秦朗、そんなに悪くない最期だと思うのですが、どうでしょうか?
三国志ライター センのひとりごと
今回は思うところあって秦朗について書かせて頂きました。前述したように、秦朗は佞臣とも言われ、最終的に失脚に追い込まれています。しかしその記録を後世から見ていくと、そこまで悪くない人生であったのでは?なんて考えが起こるのも三国志の面白さ。こう言った考察は今後も色々と重箱の隅をつつくようにさせて頂きたいと思います!
参考文献:魏書明帝紀 / 魏略
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