孫権を皇帝として、呉の国はそこから(孫権を入れて)四人の皇帝が生まれました。しかしこの皇帝たちの治世は、決して穏やかなだけではなかったことも事実です。今回はその皇帝たちの中から、三代目皇帝である孫休についてお話したいと思います。
この記事の目次
孫休の(比較的)穏やかな前半生
孫休は孫権の第六男として産まれました。13歳の時に中書郎の謝慈と郎中の盛沖に師事、おそらくですが、この時から孫休は学問にのめり込むことになったのでしょう……これは後ほど。
そして252年、皇族の一員として琅邪王に封ぜられました。この際に国境防衛ということで、長江沿いの場所に赴任します。この間に結婚をしたようなのですが、これが少々問題がありまして……。
孫休の結婚相手はまさかの
孫休の結婚相手、妻となった人物は丞相代行を務めていた呉将、朱拠の娘です。それに何か問題が?と思うかもしれませんが、この朱拠の妻、孫休の奥さんの母親は孫魯育……お判りでしょう、
孫権の娘であり、孫休にとっては姉妹であり……言ってしまうと孫休は姪っ子と結婚したのです。この婚姻は色々と問題はあったようですが本人同士は仲が良かったらしく、夫婦仲は良好だったようですね。
二宮の変後の孫休
さて呉の最悪の事件とも言える二宮の変が起こり、呉は大混乱。そんな中で孫休の父である皇帝・孫権が没します。
そうして権力を握ったのが諸葛恪、もう嫌なフラグしか立っていませんが、孫休らは楊郡に移住させられます。
ただし孫休が被害を受けかけるのがこの後、諸葛恪もまたこの世を去り(去らされ)次の権力を握ったのは孫峻。この際に孫魯班によって孫魯育が殺され、娘である孫休の妻も差し出さなければならなくなります。涙ながらに別れた夫婦でしたが、素直に差し出されたためかお咎めなしとなり二人はまた再会することができました。しかしこれは波乱の前座でしかなかったのです。
皇帝への道を歩む孫休
権力は孫峻から孫チンに移り、二代目皇帝であった孫亮は孫チンに廃位させられます。ここで三代目皇帝にさせられたのが孫休。孫休は孫チンを優遇し、孫チンの一族を要職に付ける、侯に封じる、専横は不問、だけどより厚遇する……というやりたい放題をさせました。
が、これに調子に乗ったのか孫チン、酒の席で口を滑らせます。それは孫チンの捧げものを孫休が断ったことが起因しているのですが、どうやらこれを恨んでいた孫チン「あいつ気に入らないな。もっかい廃位しちゃおうかな」と張布に話してしまったのです。張布はこれを孫休に密告。ここから孫休の巻き返しのターンがやってくるのでした。
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