三国志演義で大活躍な蜀武将たち、人材ハンター曹操がかき集めた魏武将たち、しかしそれでも負けず劣らず名将ぞろいな呉武将たち!
今回はそんな呉武将の中から、周泰をご紹介します。
彼と言えば欠かせないのがその肉体に刻まれた12の傷、話が話ならこの12の傷は主人公にしか浮かび上がらない……なんて言われそうな感じ(イメージ先行)の周泰さん、いきましょう!
この記事の目次
周泰の字は幼平(ここ重要ポイント)
姓は周、名は泰、そして字は幼平。生没年不詳ながら、九江郡下蔡の出身であることは分かっています。またとても武勇に優れた人物でもありました。
孫策に仕えたきっかけは正史三国志でもはっきりとしていませんが、三国志演義では孫堅の遺児が兵を挙げたことを聞きつけ、蒋欽と共に駆けつけています。
12の傷を負っている周泰
そんな周泰の名前を挙げるきっかけとなったのがとある時、孫権が宣城の留守を任されていた時です。この際にセン……ではなく宣城には少数の兵しかおらず、まだまだ若い孫権は油断しきっていました。
隙を突かれ、反乱軍が強襲してきます。この際に周泰は孫権を守るべく奮闘、全身に12の傷を負いながらも、孫権を守りました。その身を賭した働きぶりからか、孫権に目を掛けられるようになります。
漢中太守にまで任じられる評価
その後も、いくつかの武功を重ね、後に孫権が劉備と対立した際には漢中太守にまで任じられます。また徐盛や朱然といった武将たちの上司に任命されることもありました。
周泰は主君である孫権を我が身を挺してまで守り通したことで有名ですが、これらの件を考えてもただそれだけの武将ではなく、将を率いることを任せられるだけの人物であったと考えられます。これらは決して、かつて主君を助けただけの評価ではなかったでしょう。
周泰への不満、ちょい爆発
さてここでちょっと余談を。徐盛や朱然が周泰の指揮下に入るようにと任命された時のことです。彼らはこの采配にとても不満でした。
経歴を見る限り周泰は身一つでの叩き上げ、三国志演義では元湖族という経歴もあってか、周泰の指示に従おうとはしませんでした。
呉ってこういうことよくあるね、なんて言ってはいけません。割とたぶんどこにでもあります。
【次のページに続きます】