今回は三国志、というよりはそれより少し後の時代の話ではあるものの、まだまだなじみが薄い八王の乱について筆者なりに解説したいと思います。
八王の乱というと何だかファンタジーにでも出てきそうな名前のこの乱。簡単にいくと晋王朝が崩壊するきっかけとなった内乱のことですが、それはいったいどんなものなのか?
できるだけ分かりやすくかみ砕いて紹介していきますね。
この記事の目次
八王の乱とは? 西晋の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱
八王の乱とは、繰り返すようですが晋王朝崩壊のきっかけの内乱です。
晋王朝とは三国時代を終結させた司馬炎が開いた王朝、その崩壊を招いた内乱というと「後継者争いで八人の王が殺伐とした血みどろの殺し合いを……!?」と想像してしまいそうですが、そこが文字とはまた違うので何とも分かりにくくなっています。
めちゃくちゃざっくりと言うと「八人の王がどんどん後継者争いから脱落していく話」とでも言いましょうか。ではその経緯を説明していきましょう。
司馬炎、崩御から皇帝の権威は地に落ちる
始まりは司馬懿の孫に当たる、司馬炎こと武帝の崩御から。この跡は長男である司馬衷が継ぎました。この時の司馬衷は32歳、まだまだこれからの年齢であり幼過ぎるということもなく良い頃合いのように思えますが、この司馬衷、とにかく意志が弱い。
そのため実権はその妻である賈南風や権臣たちに握られていき、皇帝の権威は地に落ちます。
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宮中は泥沼どろっどろ
皇帝の権威が落ちれば宮中は乱れます。宮中では常に権力戦争が始まり、時には武力行使で気に入らない奴を粛清するという有様。こうなっては政治がまともに回る訳もなく、国が乱れていきます。
漢王朝の権威が失墜して黄巾党が立ってしまったように、この乱れは異民族の独立を次々と招いてしまいました。こうしてもはや晋王朝では収拾不能な戦乱の時代、五胡十六国時代がやってきたのです。
これらを招いた八王の乱は司馬衷の崩御、司馬熾の即位によって一応は終結したことになっていますが、既に晋王朝は乱れた天下をまとめる力は亡くなっていたのです。
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八王の乱始まりから終結までの年表
では八王の乱始まりから終結までざっくりと見ていきましょう。
290年5月:司馬炎崩御 司馬衷が跡を継ぐ。
291年3月:宮中クーデターにより、楊駿死亡
同年6月:宮中クーデターにより、汝南王亮ら死亡
294年:関中で異民族の反乱
299年:皇太子が賈南風により廃太子
300年:前年廃太子された元皇太子、賈南風により暗殺
同年:宮中クーデター、賈南風一族粛清
同年8月:宮中クーデター(失敗)
301年:倫による帝位簒奪、皇帝即位。司馬衷上皇位に
同年4月:宮中クーデター、司馬衷が皇帝に復位
302年12月:宮中クーデター
304年:宮中クーデター
同年10月:劉淵、西晋からの自立宣言、漢の建国宣言
306年11月:司馬衷崩御
だいぶざっくりですが、お分かりでしょうか?
クーデター多すぎ問題!!またかなり省いていますがこの間に戦争も多く起きています。これは国力が疲弊して国が亡びるのも道理というもの。
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