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この記事の目次
何で八王の乱は起こったのか?
こうなった一つの要因に、司馬炎の政策が失敗したことが考えられています。晋の前、魏では皇族に権力を握らせないようにした結果、有力な家臣であった司馬懿に実権を握られてしまいました。
ということで一族を各地に置き、それぞれに一定の権力を持たせたのです。しかしそれが逆に司馬衷という権力が失われ、しかも自身でどうすることもできなくなった皇帝が生まれた際に「自分たちが奪い取れる」というような状態を作ってしまうことに繋がってしまったのです。
とは言え、魏も魏で漢の失敗から、晋は魏の失敗から……と繰り返しの歴史もあるので、一概に全て司馬炎の失態とも言い難いのですが……。
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八王の乱の起因:九品官人法
そしてここで悪手となったのがこの九品官人法です。九品官人法は地方でも有能な人材を選んで登用するという法でしたが、この時代には既に「有力な家の人物が選ばれる」ようになってきていました。
このため「上品に寒門無く、下品に勢族なし」と批判され、能力ではなく生まれた家で出世が決まり、有能であっても地方で一家臣として終わるしかなかったのです……が、内乱が全てを変えます。
例え地方で燻っていても、その地方の王が皇帝になれば……?
という訳で、内乱は地方にとっては王だけのことでなく、臣下にまで影響するためむしろどんどんやってくれという状態になり、歯止めが効かなくなっていったのです。
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内乱に次ぐ内乱で異民族が立ち上がる
更に止めを刺したのが、国内で増加の一途を辿った異民族。異民族は曹操の時代から訪れてきており、その際は居住区などはかなり厳しく管理されてきていました。
しかし異民族は年々増え続け、洛陽近くまで増えてきたと言います。
更に天下を統一したことで呉や蜀の土地も増え、管理もままならなかったのでしょう。そこに起こった内乱に次ぐ、内乱。異民族からすれば格好の機会であり、有力な指揮官さえいれば十分に蜂起できる……そしてそうなった時にはもう抑えるだけの力はない……正に内部から晋は崩れ落ちることとなったのです。
内乱に次ぐ内乱で一気に国が傾いた、そのきっかけ。それこそが八王の乱だったという訳です。
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三国志ライター センのひとりごと
八王の乱、今回はざっくりとどんな出来事で、どんな風になってしまったのかをご紹介させて頂きました。とはいえ「八王の乱なのに八王全然出てこないじゃないか!騙されたわ!」なんて思われる方もいるでしょう。
八王の乱の八王についてはまたいずれ、時間をとってお話するとしましょう。
参考文献:晋書武帝記 恵帝記 列伝后妃上
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