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司馬昭に重用された武将・羊祜
ここでもう一人、ある武将を紹介します。その名は羊祜。彼は大将軍として魏の実権を握っていた司馬昭からの招聘を受け、最初は断るも皇帝の車が迎えに来るという状態になったためこれを受けました。
羊コもまた司馬昭から深く信頼され、要職を任せられるだけでなく、機密事項も預けられる「腹心」でした。彼は呉の陸遜の息子、陸抗と敵ではあったものの友誼を結んだとして有名ですね。
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賈充との対立?
羊コは司馬炎から都督荊州諸軍事という、対呉における総司令官の役割を賜りました。しかしこれと対立していたのが賈充とも言われています。賈充は呉に対してはかなり討伐に消極的であり、主戦派である羊コらを度々批判していました。
後279年に賈充は呉討伐の総司令官を任されるのですが、ここに及んでも賈充は何度も撤退を主張。
が、最終的に呉が滅ぼされたのは皆さんご存知の通り。最終的に賈充は呉に対する方針が間違っていたと司馬炎に謝罪、司馬炎もまた賈充に何か罰するということはないままこの話は終わります。
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賈充と羊コの確執はあったのか?
と、このように見ていくと賈充と羊コに呉を巡っての根深い確執があったのでは……?と思われますが、更に面白いのがこの陰であったある出来事。
271年にとある反乱が起き、この時に任愷がこの鎮圧に賈充を推薦しました。重要なのはこの任愷は賈充の政敵であったということです……恐らく賈充に何らかの失敗をさせて失脚狙い、もしくは反乱鎮圧で死んで貰おうと思っていたのでしょう。
しかしこの時に、羊祜が反対したこともあって司馬炎はこれを撤回しました。
この際に賈充は「貴方が徳がある人物であることを初めて知りました」と礼を述べ、感謝したと言います。この事から考えると賈充は政策とはまた別に、羊コ自身には感謝して、その能力を評価していた可能性も読み取ることができます。
賈充と羊コは今一つ性格は合わないような気がしていましたが、もしかしたら「それはそれとして」で、お互いの能力は認めていたのかもしれませんね。
三国志ライター センのひとりごと
今回は賈充を紹介しつつ、筆者もちょっと驚いた賈充と羊コの関わりについても述べさせて頂きました。こういう対立した陰で……という話は、中々興味深いものがあります。
この二人だけではなく、他の武将たちのこんなささやかな繋がりや関係……あまり触れられないこともありますが、できるだけ見つけていきたいですね。
参考文献:晋書文帝記 武帝記 列伝賈充伝
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