晋の忠臣、賈充は本人自身は忠臣と言われながらも、その子、孫がやらかした出来事が大きすぎるために、本人の評価にまで関わってくるという中々面白いというか、苦笑いが出てくるというか……な評価がされているように思いますね。
今回はそんな賈充の話をしつつ、実は賈充とちょっとした関係がある「あの」武将に付いてお話していきましょう。彼らの意外な一面が見えてくるようになると思います。
腹心、賈充
賈充は魏の名臣であった賈逵の子ですが、12歳で父を亡くし、その爵位を継ぎました。
そして成長した賈充は司馬懿の子である司馬師に仕え、腹心として働いていくことになります。
司馬師の亡くなった後にはその軍を取りまとめ、その後は司馬師の弟、司馬昭に仕えることとなるのですが……
やはり腹心としての仕え方は変わらなかったのか、司馬昭に命じられて諸葛誕の動向を探り、反乱を起こすように仕向けるなど、暗部、とも言える仕事を行っています。司馬家が政権を握っていく上では、賈充の働きもあったのでしょう。
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曹髦の殺害と母
そして260年、当時の魏の皇帝であった曹髦が司馬昭を討ち果たそうと兵を挙げます。しかしこれを予測していたのか、賈充は配下の成済に曹髦を殺害させました。
さすがにこの行動には司馬昭もびっくり、陳泰から賈充を斬って天下に詫びろと言われましたが、司馬昭は賈充を手放したくなかったのか、成済を主犯として彼の三族を皆殺しにして終わりました。
ここで出てくるのが賈充の母親、彼女は節義を重んじる性格で、皇帝を殺害した成済をいつも不敬として罵っていたそうです。その主犯は自分の息子とは知らずに……このことで賈充の母親は従者たちに陰で笑われていたとされているので、真相は結構知れ渡っていたと思われます。
知らぬは母親だけ……そう思うと、滑稽というかもの悲しいというか……何とも言葉にしがたいですね。
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晋の筆頭功臣
後、司馬昭はこの世を去ります。
その後は司馬炎が継ぎ、賈充は司馬炎に仕えることになります。そしていよいよ、禅譲によって司馬炎が皇帝となり、晋が建国されました。この際に司馬炎は、賈充を筆頭の功臣として賞しました。今までは日陰での働きも多かった賈充は、ここでやっと日の元でその功績を認められたのです。
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その後の一族……
その後の賈充は北方異民族と戦ったり、呉の戦いでは消極的だったりと色々ありましたが、賈充の勢力は勢いを保っていました。そして66歳でこの世を去ります。
しかし賈充一族……というか娘がかなりやらかしてしまうのがここから。
賈充は司馬炎の子である司馬衷に後妻の娘である賈南風(ここ重要)を嫁がせ、その一方で先妻の娘である賈褒を司馬炎の弟に嫁がせるなどしていました。
結果から言うと、賈充の子や孫の世代で晋の滅亡を加速させたと言われるの八王の乱により、晋王朝も賈充の一族も大きく滅びの一途を辿るなど、この時の賈充には知る由もなかったでしょう。とは言え、晋の忠臣、功臣の一族の影響で滅びが加速するとは、誰も思ってはいなかったでしょうね。
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