晋の忠臣・賈充と対立していた対呉総司令官との意外な関係性

2020年12月2日


 

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敵対勢力を殺害する賈南風

 

晋の忠臣、賈充(かじゅう
)
は本人自身は忠臣と言われながらも、その子、孫がやらかした出来事が大きすぎるために、本人の評価にまで関わってくるという中々面白いというか、苦笑いが出てくるというか……な評価がされているように思いますね。

 

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

今回はそんな賈充の話をしつつ、実は賈充とちょっとした関係がある「あの」武将に付いてお話していきましょう。彼らの意外な一面が見えてくるようになると思います。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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腹心、賈充

賈逵(かき)

 

賈充は魏の名臣であった賈逵(かき
)
の子ですが、12歳で父を亡くし、その爵位を継ぎました。

 

晋の司馬師は玉座に座る

 

そして成長した賈充は司馬懿(しばい)の子である司馬師(しばし)に仕え、腹心として働いていくことになります。

 

司馬昭と司馬師

 

司馬師の亡くなった後にはその軍を取りまとめ、その後は司馬師の弟、司馬昭(しばしょう)に仕えることとなるのですが……

 

諸葛誕

 

やはり腹心としての仕え方は変わらなかったのか、司馬昭に命じられて諸葛誕(しょかつたん
)
の動向を探り、反乱を起こすように仕向けるなど、暗部、とも言える仕事を行っています。司馬家が政権を握っていく上では、賈充の働きもあったのでしょう。

 

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曹髦の殺害と母

皇帝の位を降ろされる曹髦

 

そして260年、当時の魏の皇帝であった曹髦(そうぼう
)
が司馬昭を討ち果たそうと兵を挙げます。しかしこれを予測していたのか、賈充は配下の成済(せいせい)に曹髦を殺害させました。

 

曹髦の暗殺許可を出す賈充

 

さすがにこの行動には司馬昭もびっくり、陳泰(ちんたい
)
から賈充を斬って天下に詫びろと言われましたが、司馬昭は賈充を手放したくなかったのか、成済を主犯として彼の三族を皆殺しにして終わりました。

 

馮氏(女性)

 

ここで出てくるのが賈充の母親、彼女は節義を重んじる性格で、皇帝を殺害した成済をいつも不敬として罵っていたそうです。その主犯は自分の息子とは知らずに……このことで賈充の母親は従者たちに陰で笑われていたとされているので、真相は結構知れ渡っていたと思われます。

 

知らぬは母親だけ……そう思うと、滑稽というかもの悲しいというか……何とも言葉にしがたいですね。

 

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晋の筆頭功臣

反対する賈充

 

後、司馬昭はこの世を去ります。

 

三国志を統一した司馬炎

 

その後は司馬炎が継ぎ、賈充は司馬炎(しばせん)に仕えることになります。そしていよいよ、禅譲(ぜんじょう
)
によって司馬炎が皇帝となり、晋が建国されました。この際に司馬炎は、賈充を筆頭の功臣として賞しました。今までは日陰での働きも多かった賈充は、ここでやっと日の元でその功績を認められたのです。

 

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その後の一族……

呉南蛮異民族をボコボコにする潘濬(はんしゅん)

 

その後の賈充は北方異民族と戦ったり、呉の戦いでは消極的だったりと色々ありましたが、賈充の勢力は勢いを保っていました。そして66歳でこの世を去ります。

 

しかし賈充一族……というか娘がかなりやらかしてしまうのがここから。

 

賈南風

 

賈充は司馬炎の子である司馬衷に後妻の娘である賈南風(かなんぷう
)
(ここ重要)を嫁がせ、その一方で先妻の娘である賈褒を司馬炎の弟に嫁がせるなどしていました。

 

炎上する城b(モブ)

 

結果から言うと、賈充の子や孫の世代で晋の滅亡を加速させたと言われるの八王の乱により、晋王朝も賈充の一族も大きく滅びの一途を辿るなど、この時の賈充には知る由もなかったでしょう。とは言え、晋の忠臣、功臣の一族の影響で滅びが加速するとは、誰も思ってはいなかったでしょうね。

 

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両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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