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関羽の引き立て役
文醜は正史においては、関羽に殺害されていません。というより、誰に殺されたかも不明な間に混乱の中で死んだというやや情けない扱いです。しかし、三国志演義では、顔良と親友であり、仇討のつもりで関羽に挑んで返り討ちにあうという最期を遂げています。
この点から見ると、顔良と文醜は、関羽を引き立てる為に三国志演義では活躍が盛られたという事が出来るでしょう。
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劉備が嫌いな文醜
三国志演義では、文醜は親友の顔良の仇討の為に名乗りを挙げて、袁紹は10万の大軍を与えて、曹操に立ち向かわせます。この時に劉備は、
「私にはろくろく手柄が無く、袁大将の恩義に報いていないので、どうか文将軍に加勢させて下さいと願い出ています」
袁紹は大いに喜んで、文醜と組ませますが、文醜は不満で
「玄徳殿は、戦をしては負けてばかりなので不吉で御座いますが、我が君のたっての仰せならば、それがしの兵力3万を玄徳殿に与え後陣を抑えさせましょう」と言っています。
結果的には文醜の嫌な予感は当たり、劉備は助かったものの、文醜は劉備の義弟の関羽に斬られてしまうわけですから、これはかませ犬というよりも、完全に桃園三兄弟に翻弄されていると言ってもいいかもしれません。
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文醜年表
191年
界橋の戦い
公孫瓚を追い回す活躍を見せるが
初登場の趙雲に阻止される(演義)
200年
白馬・延津の戦いで戦死
官渡の前哨戦、白馬・延津の戦いにおいて
客将の劉備と共に曹操軍を迎撃するが、荀攸の計略にかかる。
200年
白馬・延津の戦いで戦死
囮部隊に引っ掛かり包囲されるまでは同じだが、
曹操軍の張遼を弓で落馬させ
徐晃を一騎打ちで圧倒して追い回すなど活躍が増えている。
だが、関羽と遭遇すると僅か3合で撃ち負け、
逃げる途中に背中を斬られ絶命。(演義)
三国志ライターkawausoの独り言
今回は、袁紹軍の二枚看板の1人、文醜について解説しました。
張遼や徐晃を退けるほどの猛将と言う扱いですが、顔良と違い具体的に誰を斬ったという事もなく、顔良の仇討ちの形で関羽に挑んで、瞬く間に斬られてしまうという最期を迎えます。
でも、強いというイメージだけで具体的な武勇伝エピソードは、なにもない人なので、三国志演義に取り上げられて脚光を浴びた人ではあるのかも知れませんね。
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