12月11日に公開された『新解釈・三國志』その大胆な三国志の解釈のし直しに加えて、大泉洋や小栗旬、ムロツヨシ、橋本環奈、佐藤二朗のような豪華キャストが出演する事で話題を呼んでいます。
しかし、長い三国志の物語を2時間の尺に収めると、三国志初心者には分からない点が出るのも仕方がないところ、そこで今回は、董卓はどうして殺されるほど憎まれたのか?
この点について分かりやすく解説します。
この記事の目次
董卓が殺される程憎まれた理由はズバリ!
董卓が殺される程憎まれた理由は、
1.皇帝を勝手にクビにしおまけに殺害した事。
2.新しい皇帝を勝手に即位させた事。
3.歴代皇帝の墓をあばいて財宝を盗んだ事。
4.洛陽の都に火を放って焼いた事
この4つの理由が決定的で、後は
5.宮殿に押し込んで皇帝の宮女を無理やりウヒョした。
6.罪のない人々を気分で殺害した。
この6つくらいが主な理由です。
6つの理由を聞くと、董卓は殺害されてもしようがない悪党だと思いますよね?
以後は、董卓がどうして嫌われたかについて話を深掘りしてみます。
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優先順位が変じゃない?
さて、董卓が殺されるほど憎まれた理由について①~⑥まで挙げてみましたが、
「ちょっと優先順位がおかしくないか?」と思った人はいませんか?
①~④よりも、⑤と⑥の方が社会的に深刻な被害が出ているという事ですよね?
でも、現在と違い身分制社会である三国志の時代は、どうしても社会の頂点に立つ皇帝についての事が最優先されてしまうのです。
何十万の民衆を殺したとしても、その同じ人物が皇帝に忠義を尽くしたとなると、皇帝に忠義を尽くした点が評価され、大虐殺についてはかすんでしまいます。これは善悪ではなく、当時は、そういう社会であったと覚えておくしかないです。
董卓に皇帝をどうこうする権限はなかった
皇帝の地位について、何とかする権限があるのは皇帝本人か、その身内だけです。また、後漢の皇帝は途中で引退し、次の皇帝にバトンタッチという事がないので政変がない限り、普通は死ぬまで皇帝の地位にあります。
しかし、董卓は皇帝の身内でもなんでもない臣下の身分なのに、
「なんか、今の皇帝無能でむかつくんだよねー、変えちゃおっか別の人に」
こんなノリで周囲の反対を押し切ってクビにして弘農王に格下げしてしまいます。難しい言葉では「廃位」と言いますが、つまりはクビにする事です。さらに、これまた皇帝の身内と相談する事無く、前の皇帝の腹違いの弟を新しい皇帝にすると宣言し、反対を押し切って実行しました。
皇帝をクビにする権限もない董卓に、新しい皇帝を即位させる権限もありません。そして、董卓は自分に反抗的な曹操や袁紹、劉備のような人々が反董卓連合軍を起こすと、弘農王に格下げした前の皇帝を自殺させました。
皇帝をクビにする権限も皇帝を即位させる権限もない董卓に、もちろん皇帝に自殺を強要する権限もありません。このような董卓のルール無視は、多くの人々の怒りを買い、董卓を殺害しないと漢王朝が大変な事になるという危機意識を抱かせたのです。
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家柄の低い董卓へのやっかみもある
董卓が殺される程に憎まれた理由には、董卓自身の家柄の低さがあります。洛陽に入城した董卓の地位は、并州牧であり、現在で言えば県知事クラスでしかありません。地方ではトップかもしれませんが、中央では特に影響力もない地位なのです。
そんな地位の低い董卓が、皇帝を保護して軍事力を背景に色々改革を始めるのですから、董卓よりも高い地位を持っているのに無視される人々は面白かろうはずもありません。
特に、四世三公として、先祖代々漢王朝で高い地位に就き続けている袁紹や袁術のようなエリートは董卓に反発し、洛陽の都を出ていきました。
袁紹や袁術からしてみると、ゆくゆくは俺達が政治をリードしていくはずなのに、横から出てきてかっさらいやがって…と不満だったのです。
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