三国志で漢王朝というと「既に終わった時代」「劉備が皇帝になった時にそんな話をしていたような」くらいしか印象に残っていない気がする漢王朝。
また三国志が始まった時代はほぼ後漢であり、漢王朝は後年から三国志を見ていることも起因して、終わりの時代を迎えています。
しかしこの漢王朝、漢時代は三国志の英雄の一人・劉備のルーツ(ということになっている)とも言えるので、たまにはこの時代を振り返ってみよう……という訳で、前漢、後漢を合わせて解説して見たいと思います。
この記事の目次
漢の始まり
漢の始まりは紀元前206年、高祖と良く称される劉邦によって建てられました。その時代もまた争いの時代であり、数々の英傑たちの争いの後に立てられた王朝でもあります。
元は始皇帝で有名な秦の時代、その死後に各地で反乱が起こりました。そして項梁、その甥である項羽の反乱軍は秦を滅ぼします。
劉邦は項羽の配下として戦い、その後は項羽と天下を争うことになり勝利しました。この時に都となったのが長安です。因みに項羽と劉邦については横山先生の漫画「項羽と劉邦」が筆者のベストオブなので興味がある方はぜひこちらを。
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忠臣討伐と国政
天下統一を果たした劉邦が真っ先に行ったのが、項羽との戦いで韓信らの討伐でした。というのも彼らは劉邦の部下であったものの、劉邦は次第に猜疑心が強くなっていき、広大な領地と武力を持った彼らを脅威と見なしていったからです。
こうして嘗ての忠臣らを討伐した劉邦は、秦王朝の失敗から省みて、郡国制を取ります。
秦王朝は基本的に中央に権力を集中させていましたが、これによって各地で反乱が起きてしまったと劉邦は考えたのです。劉邦は都周辺は皇帝の直接支配を、地方は皇帝が王を任命して統治させる方式で国政を定めましたが、その命は永くは持ちませんでした。
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呂后の専横
劉邦の死後、権力を握ったのが彼の妻である呂后です。呂后は劉邦の愛妾・威夫人とどちらの子を後継者にするかで争っていました。
当初、劉邦は威夫人との子を皇太子にするように考えていましたが、呂后が張良の薦めに従って劉邦が招くことに失敗した四人の高名な学者を我が子の師として招いたことから劉邦は考えを改め、皇太子は呂后の息子のままとなったのです。
ただこの後継者争いで威夫人への憎しみと苛立ちを募らせた呂后は劉邦の死後、悍ましい方法で威夫人を貶めて殺害しました。その様子を見せられた子、劉盈は心を病んで政治を行わなくなり、早世したと言います。その後、呂后は自分の親戚を国の重役に就け、親族による政治支配を行います。
このような面から悪女と名高い呂后ですが、息子を皇帝にするために協力してくれた張良には恩義を感じていたとも言われており、食事を断って引きこもった(仙人になるためとも)彼を諫めて食事を取られせたという一面もあって、悪女と名高いものの中々一面だけでは語れない女性だと思えますね。
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崩壊の旗が立つ
皇帝死後、更にその子である幼帝が立てられます。ここで思い出して欲しいのが三国志、あちらでも幼帝がたてられる、皇帝の妻の親族が専横する、という状態が出来ていましたね。これは言ってみれば漢王朝の崩壊フラグ。
そして呂后の死後に陳平と周勃がクーデターを起こし、呂氏一族は滅亡することとなります。その後、崩壊フラグを打ち倒したかのように文帝、景帝と(やっと)優れた皇帝が王位につき、国力を蓄えていきます。
景帝の時代には呉楚七国の乱という内乱が発生するもすぐに鎮圧され、結果として劉邦の考えた政治とは違い、権力は中央に集中する形となりました。そして景帝の次の武帝の時代、これこそが漢王朝の最盛期です。
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