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この記事の目次
前漢の終わり
武帝はその名からも分かるように武で名が知れる皇帝、各地に軍を進めて勝利を重ね、領土を広げていきました。しかし広がり過ぎる領土もまた管理の目が届かなくなり治めるのが難しくなったのか、皇太子が反乱を起こすなど再び漢王朝の弱体化が見えてきます。
そして武帝死後、霍光が宮中を専横、反乱を起こした皇太子の孫(民間で育っていた)が皇帝に就く、という異例の事態に。
しかしそれ以後はやはり皇帝の力は弱体化、外戚に権力を握られ、後に王莽により史上初の禅譲で帝位は奪われ、前漢は滅びました。
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そして三国志へ・・・
しかし王莽の儒教理念に基づいた政治は天下を乱れさせ、各地で再び反乱勃発。後に劉秀こと光武帝が再度漢を建国、これが三国志で良く言われている後漢です。
ただし後漢も末期になるとやはり外戚の専横、皇帝の権威弱体化、幼帝擁立と崩壊フラグが立ち、そこから黄巾の乱を始めとして群雄割拠の時代がやってくるのでした。
前漢、後漢、そして三国時代……見ていると分かりますが、滅びる前にはやはり滅びるだけの理由がある、そしてそれらが繰り返し行われているように見えるのが面白い所です。前の政治の失敗点を省みて行う、再び綻びが見え始める、自然とその前の政治形態に戻っていく……というのは、ある意味で政治の歴史、というべきところかもしれませんね。
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王朝の名前
最後に余談として王朝のお名前について。漢王朝、魏王朝のような国の名前はどこからきたのか、という疑問点ですが、中国では新しい国を建てる際に、国の創始者が皇帝になる前に封じられた場所を国名とするのです。劉邦が「劉」ではなく、漢にしたのは秦の滅亡後「漢中王」に封じられたことから決められたのです。
曹操も同じく、献帝に、「魏王」という爵位に封じられたことから、曹丕は魏王朝、としたのですね。また司馬昭も晋王なので、晋、となる訳です。この辺りは個人の名前だけでなく、役職や土地名も絡んでくるのでちょっと覚えにくいですが、知っておくとちょっと面白いかもしれない、豆粒知識でした。
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三国志ライター センのひとりごと
今回は漢王朝についてざっくりとまとめてみましたが、これがある意味で三国志の成り立ちとも言えるかもしれません。何せこの王朝が滅んだからこそ、三国志の時代がやってきたのです。ただ三国時代、現在我々が「蜀」と言っている国は、そこに住む人たちは「漢」と言っていました。これは劉備が皇帝を名乗るにあたり、漢王朝の後継者、を自称したからですね。とは言えこれに沿って記名していくと分かりにくいので、今後もやはり「蜀」ということにさせて頂きましょう。そんな時代を越えて色々と残していった漢王朝のお話でした。
参考:漢書高后紀 / 後漢書
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