漢王朝はいつ始まり、いつ終わったの?

2021年2月1日


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漢王朝の始まりと終焉(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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前漢の終わり

行軍する兵士達b(モブ)

 

武帝はその名からも分かるように武で名が知れる皇帝、各地に軍を進めて勝利を重ね、領土を広げていきました。しかし広がり過ぎる領土もまた管理の目が届かなくなり治めるのが難しくなったのか、皇太子が反乱を起こすなど再び漢王朝の弱体化が見えてきます。

 

炎上する城b(モブ)

 

そして武帝死後、霍光(かくこう)が宮中を専横、反乱を起こした皇太子の孫(民間で育っていた)が皇帝に就く、という異例の事態に。

 

皇帝に即位する王莽

 

しかしそれ以後はやはり皇帝の力は弱体化、外戚に権力を握られ、後に王莽(おうもう)により史上初の禅譲(ぜんじょう)で帝位は奪われ、前漢は滅びました。

 

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そして三国志へ・・・

光武帝(劉秀)陰麗華

 

しかし王莽の儒教理念に基づいた政治は天下を乱れさせ、各地で再び反乱勃発。後に劉秀(りゅうしゅう)こと光武帝(こうぶてい)が再度漢を建国、これが三国志で良く言われている後漢です。

黄巾賊を率いて暴れまわる何儀(かぎ)

 

ただし後漢も末期になるとやはり外戚の専横、皇帝の権威弱体化、幼帝擁立と崩壊フラグが立ち、そこから黄巾の乱(こうきんのらん)を始めとして群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の時代がやってくるのでした。

 

劉邦と張良と陳平

 

前漢、後漢、そして三国時代……見ていると分かりますが、滅びる前にはやはり滅びるだけの理由がある、そしてそれらが繰り返し行われているように見えるのが面白い所です。前の政治の失敗点を省みて行う、再び綻びが見え始める、自然とその前の政治形態に戻っていく……というのは、ある意味で政治の歴史、というべきところかもしれませんね。

 

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王朝の名前

魏の皇帝になる曹丕

 

最後に余談として王朝のお名前について。漢王朝、魏王朝(ぎおうちょう)のような国の名前はどこからきたのか、という疑問点ですが、中国では新しい国を建てる際に、国の創始者が皇帝になる前に封じられた場所を国名とするのです。劉邦が「劉」ではなく、漢にしたのは秦の滅亡後「漢中(かんちゅうおう)」に封じられたことから決められたのです。

 

曹操

 

曹操(そうそう)も同じく、献帝(けんてい)に、「魏王(ぎおう)」という爵位に封じられたことから、曹丕(そうひ)は魏王朝、としたのですね。また司馬昭(しばしょう)晋王(しんおう)なので、晋、となる訳です。この辺りは個人の名前だけでなく、役職や土地名も絡んでくるのでちょっと覚えにくいですが、知っておくとちょっと面白いかもしれない、豆粒知識でした。

 

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三国志ライター センのひとりごと

三国志ライター セン

 

今回は漢王朝についてざっくりとまとめてみましたが、これがある意味で三国志の成り立ちとも言えるかもしれません。何せこの王朝が滅んだからこそ、三国志の時代がやってきたのです。ただ三国時代、現在我々が「(しょく)」と言っている国は、そこに住む人たちは「漢」と言っていました。これは劉備が皇帝を名乗るにあたり、漢王朝の後継者、を自称したからですね。とは言えこれに沿って記名していくと分かりにくいので、今後もやはり「蜀」ということにさせて頂きましょう。そんな時代を越えて色々と残していった漢王朝のお話でした。

 

参考:漢書高后紀 / 後漢書

 

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はじめての漢王朝

 

 

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セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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