高祖とも呼ばれる漢王朝を開いた劉邦。
そしてその血筋を受け継いでいると噂の蜀の皇帝、劉備。実は彼らの共通点にその「子供の扱い」があった?掘り下げてみると何だかちょっと面白いこのお話。今回はその逸話を紹介していくと同時に、その面白さも見ていくとしましょう。
この記事の目次
長坂の戦い
さて時代をざっくりと進めましてこちらは有名な長坂の戦い。長坂の戦いで曹操軍から逃亡する劉備は、妻子とはぐれてしまいます。
それを発見して保護したのが後に五虎将軍に任命される趙雲将軍。最早生きては再会できぬと思われた我が子を無事に保護、喜んだ劉備は……我が子を放り投げ「大将を失うところであった」と言いました。
これが長坂の戦いで見られる、劉備とその子供のエピソードです。
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この行動、どう思う?
で、実際にこの行動、皆さんはどう思いますか?
「赤ちゃんを放り投げるなんて!」
「それでも人か!」
「親失格だわ!」
とは思いませんか?もしくは一度はそう思ったことはないでしょうか?
このエピソードに関してはいくつかフォローがあります。
「我が子を大事に思うあまりに大事な部下を失うかもしれなかった大将としての反省」
「そもそも儒教では子供が親のために働くべきなので敢えて子供を粗末に扱った」
「子供よりも趙雲の方が大事だよ☆アピール」
と、いう風にいくつか理由もあるのです。そして筆者はこの場面にもう一つ
「劉備は劉邦の真似をした」を唱えたいと思います。
劉邦の逃走
さてさて時代はずっと遡って劉邦の時代。ある時劉邦は項羽に敗れ、逃走していました。思えば曹操から逃亡している劉備と境遇が似ていますね。
そんな中で逃走の最中、息子と娘と再会、二人を馬車に乗せて逃げ続けます。しかし迫る追手に劉邦はこう考えました。
「馬車を軽くしなければ逃げられない」
劉邦は息子と娘を馬車から突き落として、逃げる速度を上げようとしたのです。
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夏侯嬰「何してんだ!!」
この劉邦の行動に驚いたのが、御者をしていた夏侯嬰。
「危険だから、馬車が遅くなるからと言っても子供は捨てられない!!」
と馬車に二人を拾い上げて乗せました。劉邦は怒ってまた子を突き落とし、夏侯嬰が拾い……怒った劉邦は夏侯嬰を何度も斬ろうとするも、そうしてしまえば御者がいなくなるため止めて……
一度ならず数回繰り返したと言います。正直、そんなことしている暇があったら逃げることに集中した方がいいのではないかと思うのは素人考えでしょうか。
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