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日本における三国志の普及と関羽人気
日本に三国志が入ってきたのは奈良時代ではないかと言われています。これは同時期に編纂されたとされる古事記が正史・三国志と同じ紀伝体で記載されているためです。ただ、読み物として難解なこの書物は、一部の識者の間で読まれた程度で民間には広まっていません。
ではいつ広まったのかというと、おそらく江戸末期。元禄(1688-1704年)初期に三国志演義を忠実に翻訳した「通俗三国志」が刊行されていますが、それよりも後期の寺子屋が増え識字率が向上した江戸末期に広まったと考えられます。
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三国志ライターTKの独り言
また、江戸時代は儒仏分離によって儒教が一つの学問として形成されていますし、儒教の派生である朱子学が幕府の正統な学問となっています。朱子学では主に主君は絶対という上下関係を強く主張しているので、君主に忠誠を誓う忠義の士・関羽が当時の思想とうまくマッチしたはずです。
新選組の局長・近藤勇がそうだったように関羽推しは少なくなかったと思います。その後も1871年に横浜に初代の関帝廟が建てられているので、財神としての信仰の始まりが近代における人気へと繋がったのではないでしょうか。
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