そうなのか!新選組の近藤勇も関羽をリスペクトしていた

2018年6月24日


 

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関羽と近藤勇

 

三国志』の英雄といえば、

その筆頭に名を挙げられるのは

関羽(かんう)なのではないでしょうか。

 

桃園で劉備(りゅうび)張飛(ちょうひ)と義兄弟の(ちぎ)りを交わし、

戦いでは鬼神のような活躍を見せ、

曹操(そうそう)から熱いラブコールを受けても(なび)かず、

それでも曹操への恩義には報い、

主君・劉備の安否がわかるや否や、

5つの関所を突破して駆けつける…。

 

まさに武人の鑑とも言うべき関羽。

そんな彼の雄姿には男であれども惚れ惚れしてしまいますよね。

 

実は、歴史に名を残した幕末の志士・近藤勇(こんどういさみ)

関羽に思いを馳せた『三国志』愛読者の一人だったのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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多摩の百姓の子

 

 

平和な江戸時代も

黒船から一発撃たれた砲弾の音で

終わりを迎えてしまいます。

 

目まぐるしい幕末の混乱期の訪れです。

 

尊王攘夷(そんのうじょうい)が叫ばれ、

徳川幕府を倒そうという機運が高まり始めた頃、

それでも幕府を守ろうと奮戦する者たちがありました。

新選組

 

それこそが、新選組(しんせんぐみ)です。

新選組は近藤勇(こんどういさみ)を筆頭に、

攘夷志士の取り締まりに奔走します。

 

ところが、

天皇を祭り上げた新政府軍は

天皇から討幕の勅命を受けて

徳川幕府にピリオドを打たんと進撃。

 

国がこれ以上混乱してしまうことを恐れた

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は大政奉還を行い、

政権を天皇に返したのでした。

近藤勇

 

しかし、この幕府の判断を

それまで幕府に仕えてきた武士たちは痛烈に批判。

その声を上げる者の中には近藤勇の姿もありました。

 

最期までがむしゃらに

悪あがきをして見せた近藤勇も、

ついには新政府軍に捕らえられてしまいます。

 

当時、武士は切腹することで自ら命を絶ったものですが、

近藤勇にはそれが許されませんでした。

 

なぜなら彼は、

多摩の百姓の子でしたから。

 



武士よりも、武士らしく

近藤勇

 

近藤勇は多摩の百姓の子でしたが、

勉強熱心な彼の実父は

幼い近藤に『三国志』や『水滸伝(すいこでん)』を

よく読み聞かせていたと言います。

 

そういうわけで、

物心つく前から大の武人好きになっていた近藤勇。

そんな近藤のお気に入りの武将は

『三国志』の関羽でした。

パワーアップした関羽

 

関羽のストイックな生き方には、

幼い心をも惹きつける魅力があったのですね。

 

関羽に憧れていた彼は、武芸にも励みます。

百姓でありながら自宅に道場を構えていた父の下、

天然理心流(てんねんりしんりゅう)という剣術を学び、15歳で試衛館に入門。

 

メキメキと力をつける近藤の才を見抜いた近藤周助(こんどうしゅうすけ)の計らいで、

近藤勇は周助の実家の養子になり、

天然理心流宗家の後継ぎとなったのでした。

 

その後、近藤勇に転機が訪れます。

なんと、徳川家茂(とくがわいえもち)が京都に上るということで、

その護衛を司る浪士組(ろうしぐみ)の募集が行われたのです。

 

関羽が劉備を主君としたように、

自分も主君を得るチャンスが訪れたと

胸を躍らせた近藤勇。

 

浪士組は京都で解散しましたが、

近藤勇は何とかそのまま幕府に仕える道はないかと模索します。

幸い、会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)の目に留まり、

壬生浪士組(みぶろうしぐみ)として活躍する機会を与えられました。

松平容保

 

内輪もめを経て荒くれ浪士たちのトップに立った近藤勇は

組織の名前を新選組と改めます。

 

その後、幕府に仇なす攘夷志士の根城・池田屋をつきとめて襲撃。

これにより新選組・近藤勇は歴史の表舞台に颯爽(さっそう)と踊り出たのでした。

 

皮肉な最期

徳川慶喜

 

新選組といえば

ダンダラ模様をあしらった浅葱色(あさぎ)の羽織。

 

この浅葱色というのは、

武士が切腹する際に身につける(かみしも)の色。

 

近藤勇は常に死を意識し、

その死のときも武士らしくありたいと願って

浅葱色を選んだのでしょう。

 

ところが、

近藤勇が武士らしく切腹をすることは許されませんでした。

 

近藤勇は板橋刑場で斬首に処せられ、

その首を京都の三条河原でさらされてしまいます。

 

最期まで武士らしくありたかった近藤勇に

この処刑方法をとったのは何とも無慈悲なことでしょう。

 

しかし、当の本人は斬首のその瞬間、

別のことを考えていたかもしれません。

関羽

 

それは、幼い頃より憧れていた関羽の最期です。

関羽は呂蒙(りょもう)に捕らえられた後、

見苦しい命乞いなど一切せずにその首を落とされます。

主君への忠誠に生きた関羽。

 

果たして、自分の生き方はどうだったか。

幕府に対する忠誠に生きることはできただろうか?

 

自らの人生が最期の時まで

関羽の人生に重なることに気づいたとき、

もしかしたら近藤はその皮肉に口元を緩めたかもしれません。

 

※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。

 

元記事:関羽に憧れていた新選組局長の近藤勇

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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