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この記事の目次
成都の地で独断専行が目立つようになる
鄧艾は占領した成都にて降伏した劉禅など重臣をゆるし、略奪なども行いませんでした。また、降伏したものも元の職場にもどし、蜀の人に安堵されたといいます。
そして劉禅やその太子、重臣などに官位や将軍職を与えました。しかし、それらは魏本国の許可を得ることはなく、鄧艾の独断で行ったものでした。
鄧艾は蜀の官僚にあうと自分の自慢話を始め、「君らの今日があるのは私のおかげなのだよ。他の人が蜀を攻めたなら君らはとっくに破滅しているよ。」
「姜維は良い武将だが、私にとってはたいしたことなかった」などといい、陰で嘲笑されていたといいます。
また、勝手に呉を攻める準備も始め、「勝手な行動を起こすな」と注意をされています。
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謀反の疑いで捕まる
この鄧艾の独断専行に目を付けたのがライバル鐘会でした。蜀の滅亡に伴い、かれにも恩賞は与えられましたが、鄧艾に比べると少ないものでした。
鐘会は姜維と出会い、かれに感服すると、密かにともに蜀で独立する計画を立てました。
そこで鐘会は
「鄧艾謀反の恐れあり」と上奏し、鄧艾を捕えることに成功します。
鄧艾は天を仰ぎ、「私は忠臣だったのに、白起とおなじ運命になるとは」と残念がったと言います。
白起は秦の天下統一に貢献したが、結局は自害してしまう悲劇の武将です。
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鐘会、クーデター失敗!そして鄧艾死亡する
鐘会は姜維とともに蜀の地で自立しようとクーデターを図ります。しかし、それに反発する鐘会の部下たちが彼を殺害し、クーデターは失敗します。
鄧艾は息子と共に護送車で都に送られる途中でしたが、部下たちに救い出されます。が、鄧艾を逮捕した武将が鄧艾による報復を恐れ、鄧艾と息子を殺害してしまいます。
都にいた他の息子は連座し処刑され、妻と孫は辺境の地に流罪となりました。
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鄧艾一族、その後
その後、晋国を起こし中国を統一した司馬炎は鄧艾の功績を認め、妻と孫の罪をゆるし都に帰還させました。その孫はのちに役人として召し出されています。
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三国志ライターみうらの独り言
鄧艾は能力はありましたが、どうも同僚を見下す癖があったようです。結果的にそれが彼の命を縮めたのですね。仕事だけでなく、人間関係も大事だと思わせるエピソードでした。
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