魏の功労者鄧艾が死亡、その悲しき最期とは?

2021年2月24日


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鄧艾の最期(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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成都の地で独断専行が目立つようになる

降伏する劉禅

 

鄧艾は占領した成都にて降伏した劉禅(りゅうぜん)など重臣をゆるし、略奪なども行いませんでした。また、降伏したものも元の職場にもどし、蜀の人に安堵されたといいます。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

そして劉禅やその太子、重臣などに官位や将軍職を与えました。しかし、それらは魏本国の許可を得ることはなく、鄧艾の独断で行ったものでした。

 

蜀を滅ぼし己の功を自慢しはじめる鄧艾(トウ艾)

 

鄧艾は蜀の官僚にあうと自分の自慢話を始め、「君らの今日があるのは私のおかげなのだよ。他の人が蜀を攻めたなら君らはとっくに破滅しているよ。」

 

「姜維は良い武将だが、私にとってはたいしたことなかった」などといい、陰で嘲笑されていたといいます。

 

また、勝手に呉を攻める準備も始め、「勝手な行動を起こすな」と注意をされています。

 

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謀反の疑いで捕まる

独立したくウズウズする鍾会

 

この鄧艾の独断専行に目を付けたのがライバル鐘会でした。蜀の滅亡に伴い、かれにも恩賞は与えられましたが、鄧艾に比べると少ないものでした。

 

鍾会を説得する姜維

 

鐘会は姜維と出会い、かれに感服すると、密かにともに蜀で独立する計画を立てました。

 

鍾会に謀反の疑いを讒言され処刑される鄧艾(トウ艾)

 

そこで鐘会は

「鄧艾謀反の恐れあり」と上奏し、鄧艾を捕えることに成功します。

 

鄧艾は天を仰ぎ、「私は忠臣だったのに、白起(はくき)とおなじ運命になるとは」と残念がったと言います。

 

戦国昭王、大激怒で白起に死を命ずる

 

白起は秦の天下統一に貢献したが、結局は自害してしまう悲劇の武将です。

 

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鐘会、クーデター失敗!そして鄧艾死亡する

殺害される姜維と鍾会

 

鐘会は姜維とともに蜀の地で自立しようとクーデターを図ります。しかし、それに反発する鐘会の部下たちが彼を殺害し、クーデターは失敗します。

 

鄧艾(トウ艾)と共に謀反の疑いで捕まる鄧艾と鄧忠(トウ忠)

 

鄧艾は息子と共に護送車で都に送られる途中でしたが、部下たちに救い出されます。が、鄧艾を逮捕した武将が鄧艾による報復を恐れ、鄧艾と息子を殺害してしまいます。

 

逃亡兵の妻子(女性)に処罰を加える法律

 

都にいた他の息子は連座し処刑され、妻と孫は辺境の地に流罪となりました。

 

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鄧艾一族、その後

三国志を統一した司馬炎

 

その後、晋国を起こし中国を統一した司馬炎(しばえん)は鄧艾の功績を認め、妻と孫の罪をゆるし都に帰還させました。その孫はのちに役人として召し出されています。

 

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三国志ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

鄧艾は能力はありましたが、どうも同僚を見下す癖があったようです。結果的にそれが彼の命を縮めたのですね。仕事だけでなく、人間関係も大事だと思わせるエピソードでした。

 

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蜀漢の滅亡

 

 

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みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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